「古典」の面白さを謹訳、林望さん講演2016/03/11 06:35

 3月5日土曜日、慶應義塾横浜初等部主催の林望さんの講演会「リンボウ先 生『平家物語』をしみじみと読む―その人情味あふれる面白さ―」を聴きに出 かけた。 それが田園都市線の江田駅から初等部へ行く途中で、歩道の段差に 足を引っかけて転び、顔を擦り剥いてしまった。 初等部が見えたので、その まま門に入り、受付で話すと、わざわざ保健室を開けて、応急手当をして下さ った。 とんだご迷惑をかけることになってしまったが、有難いことで感謝感 謝だった。

 それでも、しぶとく林望さんの講演は聴いた。 林望さんは、毎日出版文化 賞特別賞を受けた『謹訳 源氏物語』全10巻(祥伝社)につづいて、『謹訳 平 家物語』にかかっていて、全4巻の第3巻を書き終えたところだそうだ。 古 文というと、顔をしかめられ、本も売れない。 戸山高校で『平家物語』を習 ったが、退屈で、ただただ知識を詰め込むだけ、その面白さが分からなかった。  受験勉強は、一種の嫌がらせで、前後の脈絡もなく解釈させたりするので、分 かる奴は本居宣長ぐらいしかいない。 今、読むと、実に面白い。 昨日今日 のベストセラーよりも面白い。 古い芥川賞となると、作家も、作品も、陸続 と消えている。 コンテンポラリー、現代で切れば意味がある。 古典との差 は、滅びていくものと、滅びないものの違いだ。 面白いか、面白くないか、 だ。

 明治維新の頃の、文明開化を描いたような作品は、ほとんど消えている。  元々、浮世草子の研究をしていた。 自分でその分野では、日本で三本の指に 入る学者だと思うが、やっていると研究に値しないとわかる。 反対が『源氏 物語』『平家物語』『方丈記』、小説では井原西鶴、俳諧では芭蕉、蕪村、その周 辺の幾人か(一茶は三流)である。 大学の教員としては近世文学を教えた。  『源氏物語』は千年前の公家の滋味馥郁たる世界を描いており、こちらは現代 のただの人間だが、同じ人間であるという接点がある。 いいこともあれば、 悪いこともある、さまざまなことがある。 江戸時代の勧善懲悪、善玉・悪玉 に分け、水戸黄門と悪代官・大黒屋と、図式的に割り切るのは三流だ。 『源 氏物語』をしのぐような作品は、今までも、今後も現れない。 奇跡だ。 人 情の機微、現在に共通するヒューマニズム、男と女、苦悩を抱えて、幸不幸が 綯い交ぜになっている。

 古典は、長い年月を生き残ってきたから古典なのだ。 常に新しい。 教科 書が選ぶ所は、つまらない。 エロティックなところ、官能的なものは、出て こない。 落語の「目黒のさんま」のように、まるごと食わないと、味が出な い。 教科書は、カスのようなもの。 『枕草子』の「春はあけぼの」、『平家 物語』の序文「祇園精舎の」を暗記させられるけれど、面白いのはそんな所じ ゃない。 谷崎『源氏』も、晶子『源氏』(和歌の訳なし)も、今の人にはわか らない。 現代語訳は、そう簡単なことではない。 こういうことを言いたか った、伝えたかっただろうということを、書かなければならない。 不定形、 例外ばかりで、機械翻訳してもダメ。 『源氏物語』は、一条天皇の宮廷サロ ンという小さなサークルで朗読され、味わわれた仲間内の文学だ。 お互いに わかっていることは、書いてない。 省略部分があり、和歌は勅撰集の歌は全 部知っているのが前提で、「みせばなや」だけで全部わかる。 主語が、ほとん どない、今も二人称は言わないように(部長、課長と役割の名前でいう)。 鄭 重な敬語は天皇で、朗読していたからわかる。 そのまま訳してもわからない。  年老いた女房が思い出話をしている形式になっている。 語り手は、尊敬語、 謙譲語、丁寧語の、三つの敬語体系を使い分けている。 それを読んでわかり、 面白いように、ナレーターを老女じゃなくして、作者の作意に添うようにした。  『源氏物語』は、中世末まで宮廷サロンの中だけで読まれ、江戸時代の芭蕉の 頃になってようやく注釈書が出たが、ごく小さい部数で頭のよい人なら読める 程度だった、一般大衆が読めるようになったのは明治になってからだ。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック