樺太調査団参加、帰郷、再上京と信時潔2018/06/01 06:57

 「入谷の五人男」の共同生活を始めた頃から、学校では油絵具を用いての油 彩画の勉強が本格的に始まった。 1年3か月で「入谷の五人男」生活が解散 されたのは、明治37(1904)年2月7日、その前日には日露戦争の開戦、熊 谷守一は谷中真島町の下宿に移った。 同年7月の卒業に際し、守一は《自画 像》を制作し、現在は東京藝術大学に収蔵されている。 この作品は、黒田清 輝からも高い評価を受け、守一は西洋画科撰科を首席で卒業した。 そして、 成績優秀な学生が、なお授業料なしで研究できる制度の研究科に、3年間在籍 し、制作を続ける。 作品が売れる見込みはなく、売るつもりもない。

 明治38(1905)年5月、日本海海戦でバルチック艦隊が全滅、7月末には日 露戦争が終結する。 友人の石川確治から、農商務省が樺太に漁業調査団を送 る、その中に画家1名を必要とする、という情報がもたらされる。 8月、漁 業調査団の月俸25円の雇員となり、樺太へ行き、漁場らしき風景をスケッチ し、海産物や植物を絵にして記録した。 ラッコ、アザラシ、オットセイなど 初めて見る生きもの、ハマナス、クロユリなど見慣れぬ花々に、好奇心をかり たてられた。 アイヌの人々の生活にも触れ、すでにあごひげをたくわえてい た守一は、風貌が似ていたので、言葉も通じないのに、アイヌの人々に可愛が られたという。 明治38(1906)年10月、樺太調査団は解散、東京に戻った 守一は、日暮里、桜木町などと下宿を転々とする。

 信時潔が、初めて熊谷守一に出会ったのは、守一が樺太から帰った後の明治 41(1908)年頃だという。 守一が5月末に日暮里の俥屋2階の下宿に移ると、 東京音楽学校本科に通っていた信時潔は、よく訪ねたようだ、「夏ミカンを懐ろ に入れて」と、守一が語っている。

 明治43(1910)年10月、生母の死を機に帰郷し、6年ほど郷里で過ごす。  うち二冬は日傭(材木流し)の仕事をする。 東京に出る金もなく、東京で生 活するあてもなかった熊谷のことを、美術学校時代の友人たちは心配し、その 強い勧めで、大正4(1915)年に再上京することになる。 とりわけ埼玉の富 裕な家に育った斎藤豊作などは、大正9(1920)年に渡仏するまで、毎月月給 を渡すように支援してくれ、二科会への入会も世話した。 こうして制作の条 件が整って、溢れるように作品が生まれるのではと、友人たちが皆期待をした。  しかし守一は、なかなか絵を描かないで、音楽仲間や彫刻家との付き合いを続 けていた。 上京してから日暮里や本郷富士前町の下宿を転々としていた守一 は、大正7(1918)年10月、ようやく信時潔の友人福家(ふけ)辰巳のいる 本郷曙町に落ち着く。 大正4(1915)年に東京音楽学校研究科作曲部を卒業 し、母校の助教授となっていた信時潔が、たびたび訪ねてくるようになる。 信 時は、音楽と同じように絵も好きだったという。 当時、福家はほとんど目が 見えなくなっていたが、身内を大事にする音楽仲間は、福家の家に集まり、カ ルテットをやったり、バカ遊びをしたりしていて、守一も自然にその仲間に入 って、画家だか音楽家だかわからないような日を送っていたそうだ。

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