古川散歩党〔昔、書いた福沢61〕2019/05/27 07:12

     古川散歩党<等々力短信 第637号 1993(平成5).5.25.>

 麻布古川の小言幸兵衛で思い出した。 福沢諭吉は晩年、毎朝この古川沿い を散歩したらしい。 当時学生で、よく散歩のお供をしたという松永安左ェ門 さんの思い出によると(『人間福沢諭吉』昭和39年・実業之日本社)、雨が 降っても、雪が降っても、欠かさずに出かけた。 福沢は、いつも着流しに角 帯、着物のすそを角帯のうしろに十分にはさみあげる、いわゆる尻っぱしょり のスタイル。 両脚はすっかり外にあらわれる。 寒い時は、薄い真綿の入っ た絹の股引(パッチ)をはいた。 足袋は紺足袋、はき物は桐柾の駒下駄。  恰好は村夫子然というわけだが、六尺近い偉丈夫の福沢が、こうした姿で長い 籐の杖を突いて歩くと、あたりを払う堂々たる威風であったという。

 松永さんは15、6歳の時と、20歳すぎの2回計十年近い慶應在学の間、 洋服姿の福沢を見かけたことは、ほとんどないという。 文明開化の洋学派な ら、なによりも早く洋服にしそうだが、福沢はそんなことは一切むとんちゃく (ただし、身締まりはキチンとして)、和服愛用で平気な顔をしていたと、松 永さんは特筆している。  

 散歩の行程は、三田の山から、芝の三光町あたりを通り、広尾、目黒などを 一巡して帰る、約一里半(6キロ)。 多い時には十人から二十人もの、学生 や卒業生がぞろぞろと、お供をした。 福沢は、その同勢の多いのを喜んで、 わが「散歩党」と称して、特に親しくしてくれたという。 松永さんは、常連 だった。 一里半も歩くのだから、かなりの時間がかかり、みちみちいろんな ことに出くわした。 福沢は、子供がいれば、子供をあやし、老人がいれば、 老人をいたわったという。 オカマという一風変った男乞食がいたが、福沢は 折々、菓子や小銭を持って行ってやり、まるで友達のように談笑していたそう だ。 『福翁自伝』にある、母お順の女乞食とのエピソードを思い出す。  

 道中、福沢は、散歩党をかえりみながら、天真爛漫、自由自在、行き当りバ ッタリの話題で、面白い話をしかけたものだという。 何とも、うらやましい 話である。

 この古川散歩、私はてっきり今と同じような、町中を歩いたのかと思ってい た。 芳賀徹・岡部昌幸著『写真でみる江戸東京』(新潮社とんぼの本)に、 例のベアトが撮った幕末の「古川と中之橋付近」「三之橋付近」の写真があっ た。 古川の両岸はかなり広い草地になっていて、武家屋敷や寺は見られるも のの、江戸は森の都、緑したたる田園風景なのだ。 明治半ばの散歩の頃も、 そう変らなかっただろう。