ヘンリー・ダイアー、エンジニア教育の創出 ― 2020/08/11 06:58
「ヘンリー・ダイアー エンジニア教育の創出」から、読み始める。 ヘンリー・ダイアー Henry Dyer(1848-1918)は、英国をモデルに日本の工業化・近代化をめざした明治新政府が、スコットランドから招いたお雇い教師で、1873(明治6)年から82(明治15)年までの間、工学寮工学校とそれを継承した工部大学校(東京大学工学部の前身)の都検(教頭)ならびに土木学・機械学教師として、日本のエンジニア教育の組織化と実学人材の育成に貢献した。 当時、欧米では工学部を含む総合的な高等教育機関はまだ設立途上だったので、帰国後、日本での体験と成果を、郷里グラスゴーの教育実践の中に移し入れた。 しかも、エンジニアをめざしてグラスゴー大学にやって来た日本人留学生を支援したのである。
ダイアーのエンジニア教育の新機軸は、英国流の実地重視の工学教育とヨーロッパの学理重視の工学教育を組み合わせて、「専門職としてのエンジニアの教育」を意図したものだった。
第一に、6年間という長期の教育課程にして、二年ずつに区切り、普通・専門・実地の三段階とした。 専門課程は土木学、機械学、電信学、鉱山学、造船学など8学科に担当教師を配した。
第二に、学理と実地の結合をめざして、サンドイッチシステムという教育方法を取り入れた。 最初の2年間は専門基礎科目を学ぶ。 3・4年次は毎年、6カ月は大学で学習し、あとの6カ月は選択分野の学内の施設や付属の赤羽工作分局などで実習を行う。 最後の2年間は学外の、工部省が所有する灯台、鉱山、鉄道など官営事業の現場で実地研修を体験する。
第三に、エンジニアという専門職の資格認定につながる、実に厳しい試験が絶え間なく繰り返された。 週ごと、学期ごと、2年次・4年次修了時の大試験、6年次修了時の成業試験と卒業論文審査に合格してようやく卒業でき、ほぼ自動的に工部省に任官できた。 しかし、成績によって一等卒業生だけが学士号を授与され、技手のランクも定められた。
その一方、幅広い教養教育も重視されていたことが特筆されるという。 ダイアーは、文学、哲学、芸術、政治、経済、文化、専門に直接役立たないような諸科学、そうした幅広い教育を踏まえて、自らの社会的使命を的確に認識し実現するようにと説いて、エンジニアの社会的役割を強調した。
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