慶喜33歳で退隠後の趣味生活2021/07/13 07:01

 司馬遼太郎の『最後の将軍―徳川慶喜―』から、慶喜が趣味に生きた件。 明治2年9月、慶喜は謹慎を解かれ、水戸から徳川の新封地である静岡に移った。 市中紺屋町のかつて代官公邸だった屋敷にすんだ。 隠棲したといっても、慶喜は数えてまだ33歳でしかない。 静岡に来た日、「なお茫々とながい春秋を生きねばならない」と慶喜がいったのをきいて、小姓頭取の新村(しんむら)猛雄は胸をつまらせた。 しかし、すぐそうでもなさそうなことがわかった。 慶喜のいうところでは春秋がながいために日々退屈せぬようにせねばならぬということであった。

 慶喜は、自分の趣味生活に没頭した。 なによりもすきなのは、大弓と打毬(だきゅう)、鉄砲猟と放鷹(ほうよう)であった。 凝り性なのである。 放鷹などは鷹をこぶしから放つ稽古を、日に何度かした。 その稽古がおわると、宝生流の謡曲であり、つづいて油絵の稽古であった。 慶喜は絵がすきで、一橋家にいるときも奥絵師の狩野探淵をよんで山水を学んだが、それよりも激しく興味をもったのは油絵であった。 「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」と、いった。 油絵の手ほどきは多少心得ている中島鍬次郎という旧臣から得たが、画材はなかった。 慶喜は画材を自分でつくった。 カンバスは寒冷紗に明礬水(みょうばんすい)をひいて代用し、油絵具も入手しにくいため、岩絵具を荏油(えあぶら)で溶き、それに粉絵具などをくわえてつくった。

 写真については、旧幕時代から撮られることがすきだったが、退隠後はこれを化学的に研究し、現像するため暗室のなかで徹夜したことも何度かあり、とくに風景写真がすきで、静岡近辺のいいところはほとんど撮った。

 刺繍もやった。 財布などをつくり、そこに牡丹に唐獅子、菜の花に蝶などを刺繍して、近侍の者にあたえたりした。 あるとき大作にとりかかり、これができれば母文明夫人の実家である有栖川家にさしあげるといっていたが、完成してから気に入らなくなり、それを数日かかって、解きはじめた。 近臣が、それはそれで、お取置きあそばせばいかがでしょう、といったが、慶喜は「残しておけばわが死後、わが作品であるとして世間につたわるであろう、それは本意ではない」といった。 慶喜の自意識はつねに自分を歴史の人であると見、後世の目を意識しつづけた。

 三十年の蟄居の間、多くの子女ができた。 明治4年には長男と次男が同時に出来、明治5年にはその長男と次男が死んで三男が生まれ、翌6年にはその三男が死んで、長女がうまれるといういそがしさだった。 むろん母親はひとりではない。 子女のうち、成人した者だけで十男十一女であった。

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