『福澤諭吉書簡集』の「金原明善」2022/06/19 07:38

 『福澤諭吉書簡集』索引の「金原明善」、第4巻906富田鉄之助宛、910丸屋銀行維持社員宛、第5巻1079中村道太宛、第9巻2336。 第9巻2336は、金原明善宛、年不詳(明治19年前後と推定)9月14日付、要旨は【(鉄道の)井上(勝)は中上川(彦次郎)が懇意である旨を伝え、中村(道太)の消息を知らせ、秋山(恒太郎)の預金の利子の請取を依頼する】。

 第4巻[ひと]5の「金原(きんぱら)明善」。 「天保3(1832)年、遠州長上(ちょうじょう)郡安間(あんま)村(現浜松市内)に出生。 生家は七十町歩程の地主で、代々名主を務める家柄であった。 明治8年、私財をなげうち基金を醵出して治水協力社を設立、天竜川治水事業を進めた。 その後河川改修費が地方税によって支弁されるようになると、同社を解散して、天竜川上流の育林事業にのりだし、運輸製材業を営んだ。 また丸家銀行の経営が破綻するとその整理に参画した。 これがのちに金原銀行に受け継がれる。

 福沢との出会いがいつ生れたのかは明確にしえないが、子息明徳が明治6年6月入塾した時であったかもしれない。 しかし明徳は『勤惰表』には名前がない。 金原が丸家銀行の整理に関与した理由は、このとき頭取であった近藤孝行が旧山形藩水野家の家臣(水野忠弘家扶)であり、破綻は近藤が山形藩士の私的な結社である六行社に、個人的に融資したことに始まったからであると考えられる。 この山形藩水野家は、幕府老中を務めた忠邦が天保改革に失敗した結果改易されたものであり(忠邦→忠精(きよ)→忠弘(明治4(1871)年慶應義塾入社))、その故地は浜松であったから、その時代に水野家の家臣と金原との関係が生れていたからであろう。 また、早矢仕有的と並んで丸家の中心的存在であった中村道太が隣国三河の出身であり、かねて金原と親しかった故であったといわれている(『丸善百年史』)。 社会福祉事業に深い関心をもち、特に出獄人保護を熱心に行った。 大正12年歿。

 金原宛福沢書簡は今日わずかに1通残っているのみであるが、これは太平洋戦争の空襲の被害を避けようとして、地下(東京の屋敷の防空壕)に保管したためにかえって湿気の害にあったことが確認されており(渡部忠喜氏談)、銀行の整理の過程で、福沢は相当数の書簡を金原に宛てて発信していたものと考えられる。」

 第4巻906富田鉄之助宛、明治17年11月3日付、このとき富田は日本銀行副総裁、破綻した丸家銀行の善後策について、早矢仕有的案にかわるものを求めている。 第4巻910丸屋銀行維持社員宛、明治17年11月16日付、日本銀行副総裁富田鉄之助の助力による丸家銀行維持の可能性を述べる。 第5巻1079中村道太宛、明治19年8月8日付、京橋区南鍋町の出版社鳳文館の建物の買取について問い合わせ、丸屋銀行整理につき金原らと相談した内容を伝えている。 「時事新報計算簿」(『全集』21)によれば、明治19年冬から20年3月までの間に、建物の代金800円を「藤本氏」に、改装費320円を大工幸吉に、「交詢社新築費」の名目で支払っている。 時事新報社はこの年12月25日から発行所を日本橋から南鍋町(銀座)の同所に移した。

 この時事新報社移転の件は、都倉武之さんの「ウェブでしか読めない 時事新報史」第19回「社屋の移転 日本橋を経て銀座へ」に詳しい。 https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/19.html