福澤協会の史蹟見学会「慶應義塾と金沢」 ― 2023/10/15 07:25
11日と12日の両日、福澤諭吉協会の第51回福澤史蹟見学会「慶應義塾と金沢」で、金沢へ行って来た。 コロナ前から企画検討を重ねて待つこと4年、金沢在住の大窪孝司さんと都築一隆さんの強い思いが、週間天気予報の雨と雨の間の好天を呼び、「弁当忘れても、傘忘れるな」の土地柄と聞く(実際はそれほどではないそうだが)、快晴二日間の充実した見学会となった。 日程表の最初に「妙慶寺・梅原可也碑、墓所(見学)」を見た時、見学場所が定番の観光地ではなかったので、少し心配したのだったけれど、綿密な下調べと人脈によるのだろう、それぞれの場所で解説を依頼して下さっていた方々の素晴らしさと、伝えたいという熱意によって、内容の濃い見学ができたのだった。 梅原可也は、『慶應義塾入社帳』に明治4(1871)年10月18日29歳で入社の金沢県士族とあり、金沢区長(市長)を務めた。 初期の慶應義塾に、金沢は中津、和歌山、長岡などについで、6番目(?)の多くの入塾者を出したという。
11日に宿泊した金沢城大手門口の城壁に面して建つKKRホテル金沢の場所は、明治2(1869)年に「慶應義塾修学所」なるものが出来た「大手町二十番地」だということで、大窪さんが特にこのホテルを選んだのだそうだ。 「慶應義塾修学所」のことは、慶應義塾大学通信教育課程のホームページ「慶應義塾ゆかりの地」に、こんな記載がある。 この「修学所」が慶應義塾とどういう関係にあったかは、いまのところわからないが、明治2年では、まだ慶應義塾と命名して1年ほどで、よく知られた名前とはいえず、またときの年号の明治ではなく慶應としたのも不自然で、少なくとも設立に関わった人物が、慶應義塾と関わりがあった可能性が高いといえる。 幕末から明治前期にかけて慶應義塾は、全国の藩立、府県立、私立の学校に多くの英語教師を派遣していた。 金沢出身で、元治から慶應年間に慶應義塾に学んだ林久馬、伊藤左衛門、富田頼三郎らが、おそらくこの「修学所」に関わっていたのではないかと想像される。
私は福澤諭吉協会の福澤史蹟見学会で、2004年に大阪慶應義塾(明治6年設立)と京都慶應義塾(明治7年設立)、2002年に徳島慶應義塾(明治8年設立)の跡地や記念碑をそれぞれ訪れているが、明治2年といえば、それよりだいぶ早いことになる。
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