『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>3/21発信2024/03/21 07:09

   『池大雅―陽光の山水』展<等々力短信 第1177号 2024(令和6).3.25.>

 生誕300年記念『池大雅―陽光の山水』展を出光美術館で観てきた。 美学美術史卒の方から招待券を頂いた時、そばにいた人が「素晴らしい」とおっしゃった通りの展覧会だった。 国宝《楼閣山水図屏風》は展示期間を過ぎていたが、国宝《十便十宜図》は「樵便・宜晴」を見ることができた。 17.9×17.9cmの小さなものだ。 池大雅が数えで49歳、与謝蕪村が56歳の年に、尾張の素封家の求めに応じて競作した画帖である。 清初の文人で『芥子園画伝』の編者李笠翁が、自分の別荘伊園の暮らしとたたずまいを自讃した詩「十便十二宜詩」のうち、十便を大雅が、十宜を蕪村が受けもって、その詩を絵画化した。 大雅の「樵便」、右上から左下へ渓流にかかる橋を、背中に薪を背負った男が渡っている絵だ。 詩は、秋以降女中が来てくれないので、書物をなげうって、自分で薪拾いに樵の仕事へ、柴の扉を出れば、前は山である、の意。

 池大雅は、中国の文化に深い憧れを抱き、遠い中国の名勝へ叶わぬ渡唐を夢見つつ、四季が彩る日本の自然に遊び、未見の中国のモデルとした。 吉野の桜を始め、日本各地の名所をめぐり、白山・立山・富士山の三霊山も踏破、優しく明るい筆づかいで、美しい日本の風光を描き出した。 富士白糸瀧図、浅間山真景図、那智滝濺瀑図、箕山瀑布図、墨や色の点描だけで、樹の葉のさざめきや水面のきらめきが表されている。

芳賀徹さんは、『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』(朝日選書)を、「徽宗(きそう)皇帝や池大雅やセザンヌの絵を見て楽しむには、彼らが使っていたはずの中国語や日本語やフランス語についてはもちろんのこと、彼らの伝記やその背景の歴史についてさえ、何も特別のことを知らなくともよい。彼らの作品は国籍をこえ、時代をこえて、いつどこでも見る者の眼と心に語りかけてくる――こちらがじっと耳を澄ます術(すべ)さえ心得ているならば。」と、始めた。 夏目漱石は、橋口貢宛の手紙(大正2年7月3日)に、「此間ゴッホの画集を見候、珍なこと夥しく候。西洋にも今に大雅堂が出る事と存居候。」と書いた。 芳賀さんは、色彩や墨をときには点描風にも用いて、たっぷりと光と空気と潤いを含んで奥行き深い別天地を画面に打ち開いた池大雅は、まさに18世紀日本の印象派に違いなく、南仏の野で日本に憧れたゴッホの先駆け足り得る天才であった、とする。 漱石は、子供の頃から南画の山水を見ているのが好きだったという(『思ひ出す事など』)。 晩年には、自分でも南画風の絵を描いた。 津田青楓が「ワハハ」と笑ったという《樹下釣魚図》を、芳賀さんは、「漱石が前から憧れていた風流洒脱の境涯、<見るからに涼しき島に住むからに>と詠んだ閑適の理想郷を画にした、胸中山水の一点、ハイカラな文人画にほかならない」と優しい。