危篤の検校、杉山和一を救ったのは ― 2024/06/12 06:52
実は『和一青嵐』、冬と春がせめぎ合いをしている頃、一日中降ったり止んだりしていた雨が、暮六つには雨足も風も強まり、傘を煽る程の雨となって、日頃は人の出入りの多い、小川町の一角に建つ杉山検校屋敷もひっそりと静まり返っているところから始まる。 奥座敷には、この屋敷の主人、杉山和一が病気で昏々と眠り続けていて、薄らと開いた口元から今にも消え入りそうな吐息を漏らしている。 その枕元に座して身じろぎもせず、病人の手を取り、脈を計っているのは一番弟子の三島安一で、その後ろに二、三人の弟子が控えている。 悪天候の中、往診から帰った和田一が、兄弟子の安一に替ると、安一は囁くように「今夜が山だな」と言った。
「そういえばさっきからおセツ様がいらっしゃらないようですが?」 「江ノ島にお出かけになった。最早、弁財天様のご加護を願うしかないと申されてな」 「この嵐の中、一人で行くと申されたが、流石にそれはお止めして、駕籠を呼び、下男の八助に伴をさせた。今夜は夜通しご祈祷をなさるおつもりだろう」
『和一青嵐』を、これから読もうと考えている方は、この先は読まないで下さい。 小説は「一の風」の冒頭で危篤だった杉山和一の「三の風」に入る。
黎明の中で三島安一はしきりに響いてくる雨だれの音にふと気づいた。 またうたた寝をしていたらしい。 己の頬を一つ叩いて居住まいを正す。 気を取り直して、布団に手を伸ばし、師匠の腕を探した。 心なしか腕は温かかった。 もしやという思いで脈を診ると意外にもしっかりと打っている。 安一の心にすっと一条の光が差し込んで来た。 「峠を越えた!」
江ノ島下之坊の恭順は、三島安一の文を受け取った。 恭順は草履を脱ぐ暇も惜しむ慌ただしさで籠り堂に駆け込んだ。 「おセツさん、吉報ですぞ! 検校様が回復なさいました!」
セツは震える手で文を受け取り、涙で曇った目でどうにか文を読み下すと、更に涙が滝のように溢れ出た。 「おセツさんの祈りが弁財天様に通じたのですよ! 何とありがたいことだ」 セツは恭順の衣を掴み、嬉しい、嬉しいと言いながら何度も揺さぶった。 その細い肩をいたわるように撫でさすりながら、恭順も男泣きに泣いた。 昨夜から一睡もせずに祈祷を続けていたセツに、休息するようにとねぎらうと、セツはまだお役目が残っております、まずは弁財天様に祈願成就の御礼を申し上げに岩屋に参ります、と言う。 セツの顔は喜びに輝き、その表情は六十歳近い老女とは思えぬほど初々しかった。 岩屋までお伴しましょうという恭順に、「いえ、私一人で参ります。祈願したのは私ですから、ここは私一人で行かねばならないのです」 「検校様がおっしゃっておられましたよ。おセツさんは菩薩様だと」 「もったいないことでございます。でももし私のような者にも菩薩に通じる心が潜んでいるとしたら、それは検校様が慈悲深いお心で私の中からひきだしてくださったからです。それならば、今こそ私は菩薩になりましょう」 そう言ってセツは晴れやかな笑顔で一礼し、しっかりした足取りで籠り堂を出て行った。
杉山和一は長い夢から目覚めたように意識を回復した。 「ところでおセツの姿がないようだが」 三島安一が意を決したように応えた。 一昨日江ノ島から届いた「恭順様からのお文によれば、おセツ様は検校様がご危篤の日、夜を徹して弁財天様に回復祈願をお祈りし続けたそうでございます。翌朝、検校様ご回復の知らせを聞くと大変お喜びになり、岩屋へ大願成就の御礼を述べにお出かけになってそのまま崖上から海へ身を投げて自ら命を断たれたとのことです。岩の上にはおセツ様の草履がきちんと揃えてあり、岩屋の弁財天像の前にはお文が供えられていたそうです。ご自分の命と引き替えに検校様の命を御救いいただきたいと祈願したところめでたく成就したので、自分は弁財天様にお誓いした約束を果たすために身を投げますと、そのようにしたためられていたそうです。その日の夕方、島の漁師が岩場の海中でセツ様の御遺体を見つけたと知らせてきたそうな」
じっと聞き入っていた和一は、安一の嗚咽を聞くと、そうか、と一言だけ低く呟いた。
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