『萬延元年 横浜(港崎)細見』2025/02/16 07:54

 この「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』で版元として頭角を現したことを書いたら、万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版を送ってくれた方がいた。 それを書いたものを再録する。

      開港地横浜の港崎遊廓<小人閑居日記 2011.1.29.>

 先月の「等々力短信」1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦屋重三郎が『吉原細見』によって版元として頭角を現したことを書いたら、福澤諭吉協会で知り合った古文書をお読みになる方が、面白いものを送って下さった。 万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読版である。 解読のおかげで、私にも内容がよくわかった。

 万延元(1860)年といえば、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年である。 その前年福沢は安政6(1859)年、開港直後の横浜を見物に行き、看板の字が読めず、蘭学から英学への転向を発心した。

 安政6(1859)年6月2日に横浜が開港、4日に神奈川奉行所、運上所(税関)が設置された。 手回しよく5か月後の11月10日に港崎遊廓が、現在の横浜公園に開業している。 開港の日付については、以前Nさんに頂戴した『わかるヨコハマ』(神奈川新聞社)でわかったが、港崎遊廓の話はどこにも出て来ず、わからなかった。 あとがきを見たら、この本は横浜市立中学校の社会科、理科、「横浜の時間」の副読本として編集・発行されたもので、志ん生ではないが、そういうことは学校では教えてくれないのだ。

 ウィキペディアの「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」によると、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近い関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、品川宿の岩槻屋佐吉らが泥地埋め立てから建設までを請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。 遊郭の構造は江戸の吉原を、外国人の接客は長崎の丸山を手本にした。 規模は遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。

 町の名主となった岩槻屋佐吉が経営したのは、岩槻の音読みから「岩亀楼」(がんきろう)という名で、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って見せていたほどの設備を誇った。 幕府は外国人専用遊女(羅紗緬)を鑑札制にし、岩亀楼に託した。 岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれており、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。

 以前、友人達と横浜散歩をした時、横浜スタジアム横の横浜公園で、岩亀楼の遺物の燈籠を見たことがあった。 横浜市の解説文に「国際社交場をつくった」とあったのには、笑ってしまった。 文久3(1863)年の横浜地図では、この場所がYOSHIWARAとなっている。

        『萬延元年 横浜細見』<小人閑居日記 2011.1.30.>

 『萬延元年 横浜細見』は、『吉原細見』とそっくり同じ造りなのだろう、表紙を除いて(27×2)54ページ建。 表紙裏に、まず料金表「遊女揚代直段合印」(各遊女に付いている印の説明)、「揚屋舞手踊」と「座敷代」(芸者をあげる料金)、「揚屋の(規模の)印」、紋日の一覧表がある。 1頁「まえがき」、2・3頁「揚屋の配置図」、4頁~33頁「一壽齋芳員画・港崎遊廓の全体と各建物を描いた風景画」、34頁~「異人遊興揚屋 仲の丁 岩亀楼さゐ(←楼主の名らしい)」を始めとするそれぞれの揚屋の「遊女・新造・かむろ・禿舞子・仲居の名前」が43頁まで続く、3頁の空白(増設用)の後、47頁~52頁局見世の「遊女の名前」、53頁は男芸者之部・女芸者之部、54頁は案内茶屋之部となっており、奥付に萬延元申 歳春 岩亀楼蔵版、製本所 江戸芝神明前三島町 丸屋甚八 同京橋南紺屋町 伊勢屋卯之助 横浜港崎廓大門前 伊勢屋しゅん、とある。

 1頁の「まえがき」は、「今や四方の海浪静にして、諸舶渡来の船印ハ竪横浜の新港にいや賑はへる繁昌を猶も集合(つどひ)て港崎へ、花柳の里をものすれバ……」に始まり、萬延元年を「よろづ のぶるといふ はじめの年 卯月 梅亭漁父述」としてある。

 問題の料金表「遊女揚代直段合印」だが、34頁からの遊女の名前それぞれに付けられている印の意味を説明している。 「#」に小○三つ、昼夜金三両 夜斗金壱両弐分。 「#」に小○一つ、昼夜金弐両 夜斗金壱両。 「#」のみ、昼夜金壱両弐分、夜斗金三分。 △△△、昼夜金三分、夜斗金一分二朱。 △△、昼夜金弐分、夜斗金壱分。 △、昼夜金壱分、夜斗金弐朱。 大まがき印の付いた「岩亀楼」では、岩越・岩□・岩照・岩之助・勝山・亀人の7名が「#」に小○三つ、若人・菊の井・初の井・九重・八重花・若糸・玉歌・田毎・住の井・染菊・千代春・代々花・花園・三代春・若の井・紅梅・白菊の17名が「#」に小○一つ、新造の此梅以下13名が「#」のみ、となっている。

 一壽齋芳員画の港崎遊廓風景は、横浜田圃の中に提灯を下げた賑やかな揚屋の並ぶ見開きの一枚、斜め上から大門から橋を渡って入った通りを侍や町人や女、異人たちが大勢歩いているもう一枚、そこからは大門・玉川楼(小まがき)・保橋楼(小)・泉橋楼(中)・千歳長家・寿長家・金浦楼(小)・伊勢楼(中)・新岩亀(大)・見番=幸福楼・岩里楼(中)・会所・岩亀楼(大)・異人屋敷・新いすゞ楼(小)・萬長家・いすゞ楼(大)・出世楼(小)・金石楼(小)・開勢楼(小)・戸咲楼(小)・大門と往復して両側の建物の姿が描かれている。

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