「なまはげ」、八郎潟干拓事業2018/05/28 07:25

芦沢の「なまはげ」

 「帝水」で迎えた20日の日曜日は、快晴となった。 真山(しんざん)の 「なまはげ館」へ行く。 畠山茂さんによると、昭和32(1957)年にこの地 を訪れた岡本太郎は芦沢の「なまはげ」を見て、「これぞ縄文!」と叫び、日本 固有の縄文民族遺産と見抜いたという。 「なまはげ館」には、男鹿半島各地 域の観光用でないプリミティブなお面の数々が展示されていた。

 その後、昨日荒天で行かなかった寒風山の山頂へ。 かつては国内第二の湖 だった八郎潟を埋め立てた干拓地、大潟村や、船川港の国家石油備蓄基地のタ ンク、男鹿半島両側の日本海を眺めた。 戦後の食糧自給政策期や、オイルシ ョック時の、国の直轄事業の結果であり、私たちが過ごした時代の記念碑である。

八郎潟干拓事業について、畠山茂さんから面白いエピソードを聞いた。 終 戦後の講和条約交渉で、最も困難だったのがオランダとの対応だった。 オラ ンダは日本によって占領されていたジャワ・スマトラなどが、戦後そのまま独 立するなどもあり、日本に対する国民感情が極めて悪く、講和条約に最後まで 難しい注文をつけていた。 賠償の代りとして技術援助に応じるなら講和会議 に参加するとの感触を得た吉田茂首相は、建設大臣に対象となるプロジェクト を考えるように指示したが、なかなか妙案がない。 次官、局長、部長、課長 と伝わって、とうとう係長、係員クラスにまで降りてきた。 当時、戦後の焼 け跡の都市区画整理事業を担当していた下河辺淳(あつし)係長が「農林省の 八郎潟干拓」はどうかと、進言した。 ワンマン首相へ説明に行くのを、みん なが尻込みしたので、下河辺係長自身で行くことになり、大磯の吉田邸に一人 で出かけた。 進言を聞いた総理はご機嫌になり、貴重だったスコッチウイス キーまで頂いてきたという。

オランダは、「神は海を造り、オランダ人は陸を造った」といわれる干拓先進 国だ。 一方、昭和27(1957)年農林省は食糧の支給率を上げるため、食糧 増産5か年計画を策定し、その中では干拓事業が重要項目で、八郎潟干拓も計 画されていたが、技術不足と資金不足により工事が進んでいなかった。 翌昭 和28年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣し交渉し合意、29年4 月、デルフト工科大学のヤンセン教授とフォルカー技師が来日、一行は八郎潟 を視察し、7月「日本の干拓に関する所見」通称「ヤンセンレポート」を提出 した。 ここに八郎潟干拓事業の原型が示され、昭和32(1957)年5月1日、 八郎潟干拓事業所が秋田市に設置され、工事が着工された。

 下河辺淳さんは、建設省で河川や港湾など各種の総合開発計画に関与、経済 企画庁では戦後日本における国土計画の根幹をなした全国総合開発計画(通称 「全総」)の策定に係る。 長らく国土開発・国土行政に力を及ぼし続け、昭和 52(1977)年国土事務次官に就任する。 退官後も、「全総」の策定に尽力、 阪神淡路大震災復興政策の立案に参画、委員長を務めた。 平成28(2016) 年8月、92歳で亡くなった。

男鹿半島の「爆裂火口」と「石焼き」2018/05/27 06:51

 大龍寺から、夕景の中、男鹿半島西岸の観光道路を行くはずだったのだが、 生憎の天候で、おそらく「なまはげライン」という山側の観光道路を通ったと 思われ、男鹿温泉郷を右に見て、西岸の戸賀湾岸をぐるりと回って、GAO男鹿 水族館の高台にある「海と入り陽の宿 帝水」に到着した。 同行したJTB秋 田の若い添乗員作成の「旅のしおり」では、「海と入り湯の宿 帝水」となって いて、最初、露天風呂に「海水でも入るのか」と思った。 「湯」は「陽」の 単なる誤記だった。 高校新聞部出身の悪い癖が出て、ご本人に直接話したら、 まったく気付いていなかったので、ついでの老爺心ながら、例年は留守宅用の 「旅のしおり」も付けると、余計なことを言った。

 バスガイドさんによると、戸賀湾と、その内陸にある、二ノ目潟、一ノ目潟 (天然記念物)は、鹿児島県薩摩半島南東部にある池田湖と同じ「爆裂火口」 「マール」だという。 「爆裂火口」はexplosion crater、「火山の爆発的な噴 火によって生じた火口。山体の一部が吹飛ばされ、漏斗状の凹地ができる。マ ールも一種の爆裂火口である。」(『ブリタニカ国際大百科事典』) 「マール」 はMaar(ドイツ語)、「火山の形態の一種。爆発的噴火によって生じた円形の 小火口のうち、砕屑(さいせつ)物の堆積が少ないため山体を形成するに至ら ないもの。秋田県男鹿半島の一ノ目潟・二ノ目潟の類。」(『広辞苑』)

 なお、『広辞苑』では、「池田湖」はカルデラ湖としてあり、『大辞泉』ではカ ルデラ湖としつつも、追記に「鰻池や山川(やまがわ)湾などのマール群とと もに、「池田・山川」として活火山に指定されている」とあった。 そこで「カ ルデラ湖」だが、「カルデラcaldera(火山性の火口状凹地で直径が約2キロメ ートルより大きいもの)の全部ないし大半に水をたたえた湖。」「カルデラ床の ほとんどに湛水している場合をさし、カルデラの一部だけを占める火口原湖(榛 名湖・芦ノ湖)とは区別される。」「水深が深く、田沢湖(423m)、支笏湖(360 m)、十和田湖(327m)、池田湖(233m)、摩周湖(211m)など、第5位まで の深湖はすべてカルデラ湖である。」(『日本大百科全書』)

 「海と入り陽の宿 帝水」の夕食に、温物「秋田牛の石焼き」と、留椀「男鹿 の石焼き」が出た。 「秋田牛の石焼き」は、やや厚めの薄切り牛肉とパプリ カなど数種の野菜を、黒っぽい焼けた丸い石の上に、自分で乗せて焼くもの。  「男鹿の石焼き」は、料理する人が、直径50センチ位の桶の水の中に、魚や 野菜を入れ、その中に焼けた石を入れて、豪快に沸き立つところへ、土地の味 噌を溶き加えて供する。 どちらも焼けた石がよく割れないものだと、質問が 出た。 石は溶岩で、一回しか使わない、専門の業者が海に潜って取るという ような話だった。 「石焼き」で、『日本大百科全書』を引くと、「石を熱して 熱源とする料理法。各地に石焼きの郷土料理があるが、名称は同じでも内容は 違う。原始的な料理法で、野趣がある。」として、「秋田県男鹿半島の石焼きは、 海女がとった生きた海の小魚を器の中に泳がせておき、その中に熱い小石を数 多く加えて煮る。」とあった。 「帝水」での料理は、それを洗練しパフォーマ ンスにしたのであろう。

 男鹿半島の「爆裂火口」「マール」と「石焼き」、NHK「ブラタモリ」の恰好 のネタなので、企画したら面白いと思った。  (写真は、「海と入り陽の宿 帝水」から見た戸賀湾)

澤木四方吉を悼み父親が寄進した寺2018/05/26 07:08

 海蔵山大龍寺、見晴らしのよい山の上にある、立派なお寺である。 下の狭 い道への入口で待っていた、先代ご住職ご手配の旅館のマイクロバスに乗り換 えて、お寺まで登る。 折から強くなった、雨と風、気温も急に低くなって寒 い。 まことに絶妙のご手配で、助かった。 先代のご住職が案内をして下さ る。 ここは開山以来、三度目の場所なのだそうだ。 およそ830年前に天台 宗寺院として開山され、男鹿半島「女川」に居していた安倍寂蔵が菩提寺とし ていた真言宗の時代を経て、台厳俊鏡という禅僧を請し曹洞宗の禅宗寺院とし て再興、尾名川氏の菩提寺であった。 天正5(1577)年に脇本城主、安東安 倍愛季が尾名川氏を滅ぼし、この寺を脇本城下に移して、安東家の祈願寺、龍 神信仰により武運長久・繁栄を祈る寺とした。 以来、350年余は「脇本」に あったが、時代が移り変わり、徐々に荒廃していった。

 その寺の様子を案じた、一檀家である資産家、つまり澤木四方吉の父・晨吉 が、昭和5(1930)年に亡くなった四方吉の死を悼み、その冥福を祈るため、 自分の所有する広大な庭園付きの夏の別荘を、菩提寺の伽藍とするために寄進 したのだ。 大正4(1915)年に、この別荘を訪れた井上円了(昨年の史蹟見 学会で訪ねた東洋大学の創立者。東洋大学・井上円了と慶應義塾・福沢諭吉< 小人閑居日記 2017.4.30.>井上円了と石黒忠悳、福沢を冷やす氷<小人閑居 日記 2017.5.1.>参照)は、「楽水亭」と命名したそうだ。 寺の移転に、檀 家の賛否は、半々だったという。 澤木晨吉は、本堂を建立し、昭和7(1932) 年に現在地に移転した。

 正面から入って、本堂を拝して、左奥を覗くと、実に奥が深い。 大きな寺 だということがわかった。 その奥が祠堂殿という壮大な建物で、正面の仏壇 に澤木四方吉の位牌が飾られていた。 柱のない広い座敷のぐるりを、各檀家 の仏壇が囲んでいる。 二階も回廊になっていて、仏壇が並んでおり、正面に は龍神信仰の厚い漁民が明治初期に奉納したという三十三観音像、手前本堂側 には、農民が奉納した十六羅漢像が並んでいる。

 祠堂殿の右、中庭に面して、正面に龍王殿、多宝塔様式では全国でも五指に 入る大きさという建物がある。 上階には大梵鐘があり、鐘楼堂を兼ねた多宝 塔としては日本で唯一のものだという。 先代のご住職に鐘楼からの眺めがい いと勧められて一行で登るが、生憎の天気、木村和道さんと坂井達朗先生が鐘 を撞くと、すばらしい余韻がいつまでも船川の町に流れて行った。 「解脱飛 龍大龍王」と「海蔵常安大亀王」を祀り、開運・繁栄と厄除・安全の鎮守とし て世の信仰が厚い。 龍王殿に掲げられた寄進看板の各会社が、大龍寺の立派 な伽藍を支えているのだろう。 私は、父のルーツの地、山形県鶴岡と湯野浜 の間にある、同じ曹洞宗の龍澤山善宝寺(1990年だったか人面魚で話題になっ た)の龍神様信仰を連想した。 守護神に大龍王と大龍女を祀り、航海安全・ 大漁祈願の寺として、海運・漁業の各会社の篤い信仰を集めている。

 澤木四方吉の姪(兄再吉の娘)数枝(歌人・穂積生萩)は、四方吉の紹介で 慶應義塾の教員仲間で昵懇だった折口信夫に和歌を学び、住み込みの内弟子と して、女性を身辺に寄せ付けなかった折口の唯一の女弟子だった。 そして穂 積家への嫁入りから、「なまはぎ」という歌名まで世話したという。 「なまは ぎ」は男鹿の民俗行事「なまはげ」にかけた命名だった。  一行の中で、折口信夫の講義を聴いたという大先輩の守田満さんは、教室で 折口にお茶を出し、痔を病んでいたという折口に座布団を用意する女性がいた と話していたが、もしかすると澤木数枝さんだったのだろうか。

 旧別荘「楽水亭」を見事に伽藍に取り込んでいる。 贅を凝らした建材や造 作、ドイツから取り寄せたという飾り板ガラス。 訪れた先代三遊亭円楽の襖絵、 楽太郎(現・円楽)の色紙まである。 そのお座敷で、手入れの行き届いた庭 と龍王殿を眺めながら、お茶とお菓子を頂いた。 今回の大龍寺の大歓待には、 地元でその存在をよく知られていなかったという澤木四方吉の業績と価値を、 伝え続けた畠山茂さんのご努力があったからのように思われた。

熊谷守一と信時潔<等々力短信 第1107号 2018.5.25.>2018/05/25 07:12

 地方の素封家というのか、学生時代の友達の中には、東京にも家があり、女 中さんがいて、そこから子供達が学校に通っているのが、何人かいた。 何し ろ親がいなくて自由だから、格好のたまり場、遊び場となっていた。 熊谷守 一は、どうだったろう。

 画家・熊谷守一(くまがい もりかず)は、明治13(1880)年、岐阜県恵那 郡付知(つけち)村(現・中津川市付知町)に生まれた。 父・孫六郎は製糸 工場を営み、後に初代岐阜市長となる。 熊谷の兄二人と熊谷自身も一時、慶 應義塾で学んでいて、塾歌を作曲した信時(のぶとき)潔(東京音楽学校卒) は熊谷の終生の友だったということを、『三田評論』5月号の「執筆ノート」、 福井淳子さんの『いのちへのまなざし―熊谷守一評伝』(求龍堂)で初めて知っ た。 熊谷は明治33(1900)年、父の反対を押し切り、東京美術学校西洋画 科選科に入学する。 同期には青木繁、和田三造、有島生馬がいた。 明治34 年、父の急死により、家業の倒産にあうが、36年東京美術学校を卒業した。

 沖田修一監督の映画『モリのいる場所』は、まだ観ていない。 映画の前に と思い、「日曜美術館」2014年6月1日放送「熊谷守一の世界」のビデオを改 めて見て、副都心線の要町駅で降り、豊島区立熊谷守一美術館で開催中の「熊 谷守一美術館33周年展」(6月24日まで)へ行った。 長く借家暮らしを続 けていた熊谷が、この千早の地の新築平屋庭付き一戸建ての家に越してきたの は、昭和7(1932)年、52歳の時で、妻・秀子、長男・黄(9)、長女・萬(6)、 次女・榧(かや・3)の五人家族だった。 熊谷は97歳で亡くなるまでの45 年間をこの家で過ごした。 この地に昭和60(1985)年次女榧さんが私設美 術館を設立し、平成19(2007)年に豊島区に作品153点を寄贈、現在の豊島 区立の形になった。 館長の榧さんは、現在89歳になるそうだ。

初期の熊谷はニスのかかった暗いアカデミックな絵を描き、やがて、昭和3 (1928)年肺炎で急死した次男を描いた《陽(よう)の死んだ日》(大原美術 館にある)のような、フォーヴィズムの描きなぐったような作品となる。 昭 和22(1947)年、長女萬が結核で亡くなり、《ヤキバノカエリ》(岐阜県美術 館にある)を転機として、画面をはっきり線で区切り、面を平塗りする、あの 画風に変ったのだそうだ。 付知町の熊谷守一つけち記念館から、花を○で表 現した《あぢさい》が来ている。 鉛筆のスケッチ、墨絵、書なども、多数あ るが、どれもいい。 墨絵は、熊谷家の生活を心配した信時潔が描かせて、友 人達に売って歩いたそうだ。 榧さんによると、熊谷=モリは、人が好きだっ たけれど、映画『モリのいる場所』とは違い、家に男の人をあげるのを嫌い、 どんなに仲がよくても、信時潔さんですら家に泊めたことがない、という。

澤木四方吉、その生涯と足跡2018/05/25 07:10

 男鹿半島の船川港へ向かう。 澤木四方吉(よもきち)と関係の深い、大龍 寺を訪ねるためだ。 澤木四方吉については、小泉信三さんの書かれたもので 知っていた。 この旅行にも積ん読していた岩波文庫の『美術の都』を持参し、 羽田空港の集合前にパラパラやっていて、澤木が明治学院から慶應義塾に進ん だことを知った。 馬場孤蝶と同じだ(私も苗字が馬場で、明治学院中学から 慶應義塾志木高校に進んだけれど、もちろん馬場辰猪・孤蝶兄弟と親類ではな い)。 この旅行では、あとで岡田謙三も明治学院中等部から東京美術学校と知 ることになる。

 澤木四方吉は、慶應義塾の美学・美術史の初代教授、『三田文学』主幹。 筆 名は澤木梢。 小泉信三、三辺金蔵、小林澄兄とともに欧州留学。 澤木四方 吉は、明治19(1886)年12月16日に男鹿半島の船川港(現・男鹿市)で生 まれた。 父の澤木晨吉(しんきち)は、広大な山林の経営や日本海沿岸の物 流を一手に担い、船川町長を務めたり、澤木銀行を開設したりして、この地の 名望を一身に集めていた。 福沢諭吉の思想と人格を深く敬慕し、四人の男子 を慶應義塾に学ばせた。 兄弟に一軒の家を用意し、賄いの女中を置いて、悠 然と通学させていたという。 末子の四方吉は、明治32(1900)年12歳で上 京して明治学院に入学、翌年1月、慶應義塾普通部に転入した。 福沢が亡く なる一年前である。

 四方吉は大学部文学科を卒業して、普通部で英語を教え、明治45(1912) 年7月義塾海外派遣留学生として渡欧、以後留学は3年4か月に及んだ。 第 一次世界大戦までは、ベルリンとミュンヘンに滞在し、同時代の新しい芸術運 動の息吹を間近に受け、その紹介も行っている。 ミュンヘン大学では美術史 家ヴェルフリンに師事し、またカンディンスキーの知遇を得た。 大戦を契機 にロンドン、パリなどを経て、イタリアに留学、フィレンツェ、ローマなどを 拠点として北イタリアの美術を旺盛に研究した。 大正5(1916)年1月帰国、 永井荷風の後を継いで『三田文学』の主幹となり、9年間を務めた。 翌年11 月、留学中の論文、紀行文を含む『美術の都』を出版。 帰国後は、ルネッサ ンス美術に始まり、ギリシャ美術の研究に携わった。 大正7(1918)年から 慶應義塾大学文学科で西洋美術史を講義し、翌年から東京帝国大学でもギリシ ャ美術の講義を持った。

 しかし宿痾の肺結核が進行、5年の療養を経て、昭和5(1930)年、鎌倉の 自宅で亡くなる、享年43歳。 父の晨吉が四方吉の死を悼み、その冥福を祈 り、澤木家の夏の別荘「楽水亭」(井上円了が命名)を菩提寺の伽藍とするため に寄進したのが、雨風の中、われわれの訪れた大龍寺である。