『明治人の観た福澤諭吉』から2010/01/06 07:08

 伊藤正雄編『明治人の観た福澤諭吉』から、山田博雄さんが読んだ内、ごく 一部を、書き出してみる。

○福地源一郎(桜痴)「旧友福沢諭吉君を哭す」(明治34年2月4日『日出国(やまと)新聞』)

 「世間或は君の学術議論を評して、浅薄浮躁の譏を為す者ありと雖も、是畢竟 君の本領を知らざるの言なり。欧米の文明を咀嚼して以て之を日本化せるもの、 君を外にして誰ありとする乎。」

○田口鼎軒「福沢翁逝けり」(明治34年2月9日『東京経済雑誌』)

 「余は翁の巨人たることを許すものなり。翁は他人の企及すべからざるの事 業を成せり。慶応義塾を設立したること是なり。時事新報を発行したる事是な り。」「翁は明治の初めより今日に至るまでの間に於て、欧米文明の一手販売者 にてありしなり。」

○徳富蘇峰「福沢諭吉君と新島襄君」明治23年3月『国民之友』

 「(福沢)君は決して時勢に後れて時と推し移るに非ず、時勢に先だつて推し 移るなり。是れ所謂る君が明治の社会に超然独歩する所以にして、君が独特の 技倆亦た此に在り。時勢の将に変ぜんとするや、君先づ之れを観る。(中略)其 の炯眼なる、恰も梟鳥の暗中に物を視るが如し。」「蓋し君の明治世界に於ける 感化の大なるは、他に比す可きものなし。若し之ありとせば、それ唯だ第十八 世紀の下半に於て、仏国の人心を支配したるヴォルテール其人あるのみ。」

○山路愛山「福沢先生の政治論」(仮題)(明治44年刊『書斎独語』其一)

 「福沢先生の文集を通読するに、先生の殆んど死ぬる迄深く信じて違はざら んとしたるは科学の権威なり。此点に於ては先生は醇乎たる理論家なり。急激 なる進歩党なり。」「されど政治論に至つては、先生は常に全体の権衡を見る。」

○正宗白鳥「福沢諭吉の文章」(仮題)(昭和10年6月『中央公論』)

 「福沢翁の行動、言説、感想には、阿呆らしく思はれるところが割合に尠い、旧習を脱却して直ちに事物の真相を見てゐる点では、世にも稀れなる 人であつたと、私は今になつて感じてゐる。」「『文明論之概略』の如きは、啓蒙 的の「文明開化論」たるに留らず、国家社会その他いろいろな思想について、 もつと根本的の批判を含んでゐると思ふ。」「強固なる「自国独立」の必要を結 論の要点としてゐるので、明治初年の時世に照らし見ると、適切な啓蒙的訓戒 であつたのだが、私などには、結論よりも途中の感想(議論の運び方…山田博 雄さん)が面白かつた。」「だが、啓蒙事業に没頭した彼は、自己の人生批判を 深く進めようとはしなかつた。」

明治同時代人の福沢批判2010/01/07 06:59

 同じく伊藤正雄編『明治人の観た福澤諭吉』から、山田博雄さんが読んでく れた中で、福沢に批判的な文章を紹介してみる。

○内村鑑三「福沢諭吉翁」(明治30年4月24日『万朝報』)

 「天下彼の功労に眩惑せられて、未だ彼の我邦に流布せし害毒を認めず。金 銭是れ実権なりといふは彼の福音なり。彼に依りて拝金宗は恥かしからざる宗 教となれり。彼に依りて徳義は利益の方便としてのみ貴重なるに至れり。武士 根性は、善となく悪となく悉く愚弄排斥せられたり。彼は財産を作れり。彼の 弟子も財産を作れり。(中略)利慾を学理的に伝播せし者は福沢翁なり。」

○井上哲次郎「福沢翁の『修身要領』を評す」(明治33年5月『教育学術界』)

 「独立自尊を以て唯一の主義となすは果して当を得たる者なるべきか。徳川 時代の極端なる服従主義を矯行せんが為めに、独立自尊を唱ふるは或は可なら む。然れども、しかく極端なる服従主義は今は存せず。然らば果して何を矯正 せむとするか。只、忠孝の教は依然として国民教育の真髄なり、骨子なり。」「服 従なき独立自尊は、之を下層に伝播すれば破壊的運動とならざるやも亦保し難 し。」  (井上哲次郎は帝大教授で、国家主義の官僚哲学者、当時は文科大学長。教 育勅語の絶対信奉者。…伊藤正雄さんの解説)

○高山樗牛「福沢諭吉氏」(明治30年9月『太陽』)

 「福沢諭吉氏の欧化主義は、近来の時事新報紙上に於て益々其の極端に走れ るを見る。蓋し日本中心主義の勃興に対して、知らず知らず是の激励を致した るものか。是の翁が開国主義と欧化主義とは、三十年一日の如く、亳も時勢の 推移に着目せず、維新草創の際に於て唱道の須要を見たりしもの、直ちに之を 三十年後の今日に行はむと擬す。吾等は是の翁の末路に就て後世の批議を思へ ば、少しく気の毒の思ひ無きを得ず。」「教育社会の自尊排外熱を排斥し、保守 論の根拠を打破せむとするの意気や壮なり。然れども之れ現今学者の唱ふる日 本中心主義の真相に対する誤解に本づく。」

『文字之教』を読む2010/01/08 07:04

 伊藤正雄編『明治人の観た福澤諭吉』から、山田博雄さんが福沢の文章(文 体の改革)に関連して、あと二つ紹介した文章があった。 一つは、中江兆民。  12月5日の福澤諭吉協会の土曜セミナー「文体と思考の自由―福澤諭吉の射 程」で、齋藤希史さんが《不飾自在の文章》と紹介した『一年有半』(明治34 年)からの一文である。(12月14日の日記参照) もう一つは、徳富蘇峰の「文 字の教を読む」(明治23年4月『国民之友』)で、これについては2003年6月 に中川眞弥さんの「『文字之教』を読む-徳富蘇峰の指摘-」という講演を聴い て、二回にわたってやはりこの日記に書いていた。 ブログにする以前のこと なので、あらためて今日と明日ここに引用することにした。

 『文字之教』を読む<小人閑居日記 2003.6.25.>

 6月の第三金曜日には、毎年「ジャーミネーターの会」がある。 近年は有 楽町の日本外国特派員協会が会場になっている。 高校時代に、日吉の慶應高 校と三田の女子高、それに私の志木高で、新聞を作っていた仲間の会だ。 「ジ ャーミネーター」というのは、発芽試験器だそうで、三校の新聞部が新人研修 のために出していた研究紙の名前だった。 洒落た先輩(生意気な高校生)が いて、名前にしても、そんな新聞を出していたことも、大したことをやってい たものだと思う。

毎年スピーチがあるが、今年(20日)は幼稚舎の舎長をなさった先輩 (9年上)中川眞弥さんの「『文字之教』を読む-徳富蘇峰の指摘-」という話を聴 いた。 『文字之教』は、福沢諭吉が明治6年に刊行した子供向きの国語教科 書である。 従来の難しい四書五経の素読といった方法でなく、やさしく、漢 字をわずか928種しか使わずに、日常の役に立つ言葉や文章が身につくよう に工夫されたものだ。 『第一文字之教』『第二文字之教』『文字之教附録 手 紙之文』の和綴三冊本、『手紙之文』は草書体の木版刷り、実際に手紙を書くた めの手本になっている。 今日、ほとんど、読んだ人はいないだろう。 中川 眞弥さんの話を聴くうちに、それが、素晴らしいものだということが、徐々に わかってきた。

蘇峰の挙げた福沢文章の特色2010/01/09 07:04

蘇峰の挙げた福沢文章の特色<小人閑居日記 2003.6.26.>の再録

 『文字之教』がどんなものか、『第一文字之教』から例を示す。

第七教

酒  茶  飯  砂糖

買フ 喰フ 良キ 悪キ

  酒ヲ飲ム○茶ヲ飲ム○飯ヲ喰フ○子供ハ砂糖ヲ好ム

  ○良キ子供ハ書物ヲ買テ読ミ悪キ男ハ酒ヲ買テ飲ム

第十五教

角  尾  毛  髪

髭  魚  蛇  坊主

  牛ニ角アリ○犬ニ尾アリ○魚ニ毛ナシ○蛇ニ足ナシ○女ニ髭ナシ   ○女ニモ男ニモ髪アレドモ坊主ニハ髪ナシ

 徳富蘇峰は、明治23年4月『国民之友』80号に、前月(つまり出版から 17年を経て)この『文字之教』を読み、福沢について、世間が認める新日本 の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者としての福沢の役割、 日本文学が福沢に負うところの多いことを説明するのに、この本が「大なる案 内者」となる、と書いた。 福沢が、すでに明治6年の時点で、平易質実、だ れでも読むことができ、だれでも理解できる「平民的文学」に注意したことを 知るのだ、と。

 蘇峰は、そうした「平民的文学」の先駆者としての福沢の文章の特色として 七つを挙げる。 1.その言葉の使い方に警句(「警策」エピグラム)があって、 一種の気迫がある。 2.身の回りの卑近な例を引くので(「直截」)、誰でも理 解しやすい。 3.他人が考えもしない発想(「非常の事を通常に云う」)。 4. 比較が巧みで難しい理屈が納得しやすい(「不釣合」に突飛な対比)。 5.用 語の意味をつまびらかにして、分かりやすい(「死中に活」)。 6.諧謔、頓智、 諷刺、嘲笑、中でも最も多いのは嘲笑。 7.「嘲笑的な特色と相伴ふて離れざ るものは、懐疑的香味是なり。」

この七つのうち、5までは、人がもし子細に学習すれば、その一片を学ぶこ とができるだろうが、6.7.は福沢に天性のもので、実に旧日本破壊、新日 本建設に際して、人々を目覚めさせるのに一大利器になったという。

50年前、大阪での福沢先生誕生記念祭2010/01/10 07:11

誕生地記念碑前で(中央、奥井復太郎塾長の左上に馬場)

 今日1月10日は、福沢諭吉の誕生日だ。 天保5年12月12日は、1835年 1月10日に当り、今年は生誕175年という節目の年になる。 第175回福澤 先生誕生記念会が、三田で開かれる。

 私はこの日を特別の思いで迎えた。 ちょうど50年前、1960(昭和35)年 の今日、第125回福沢先生誕生記念祭が大阪で開かれた。 慶應義塾創立100 年から二年、きりのいい125回を大阪で盛大に祝おうということになったのだ ろう。 大学から幼稚舎までの各学校代表の学生、生徒が西下して式典に参列 した。 高校3年生だった私は、その一人として志木高校から参加させてもら った。 この貴重な体験は、私の唯一の自慢のタネで、何かにつけて触れてき た。 友人たちには「かつては神童だった」と自称している。 それをピーク に、その後の人生は下降線を辿ることになる。

今日は幼稚舎代表だった池田光さん、中等部から来た御子柴明子さんとも、 会場でお会いする予定になっている。 池田光さんを引率して来られたのが故 桑原三郎先生で、以後の先生との交遊のもととなる。 その池田光さんが、当 時の記事の載った『三田評論』や幼稚舎の『仔馬』を保存していて、コピーを 頂戴した。 ほとんど忘れていた第175回福澤先生誕生記念会や、その旅の細 部がわかったり、思い出したりした。

1960(昭和35)年1月9日(土)正午に東京駅乗車口集合、0時半の特急「は と」で大阪へ、8時大阪着(新幹線開業前の当時、7時間半かかった)堂島ホ テルという旅館に泊る。 10日(日)午前中、適塾を見学。 大阪城を見て、 新大阪ホテルでビフテキの昼食。 1時、玉江橋北詰中津藩蔵屋敷跡、阪大病 院前の生誕地での、記念式典に参列。 3時、三越大阪支店で記念講演会、板 倉卓造「ブロッホの予言と福沢諭吉」、滝川幸辰「先覚者としての福沢先生」を 聴く。 5時半から、三越大食堂で京阪神連合三田会主催の記念祝賀会に参加。  11日(月)午前9時の特急「つばめ」で帰京、午後4時半東京駅着。