福沢と大学部の存続2010/05/24 06:34

講演の要旨に「晩年の福澤諭吉が、自伝を口述し、その速記草稿に綿密に手 を入れて『福翁自伝』としてまとめ上げた意図がどこにあったのか、生誕175 年の節目の年にあらためて目を向けてみるのも意義あることではないかと考え ている」と、松崎欣一さんは書いている。 演説館での講演は、そのお気持が こもったもので、あたかも福沢先生が松崎さんに乗り移って、慶應義塾の奮起 を促す遺言を述べているかのような感じさえしたのである。

明治20年代後半、慶應義塾は大学部の赤字が原因の経営危機に陥り、明治 29(1896)年10月には評議員会が小幡篤次郎塾長の下で、大学部の廃止を決 める。 しかし福沢は、この方針に反対し、評議員会の決定を逆転させて、大 学部の存続を決めさせ、そのための新たな資金を寄付という形で集めようと考 える。

松崎さんは、いくつかの福沢の手紙や演説を引用した。 まず明治30(1897)年8月6日付、日原昌造あて書簡(2184)。 「慶應義塾も金が次第ニなくなり候。如何可致哉御考被下度。金がなけれバ 止めにしても不苦候得共、世の中を見れバ随分思ふべきもの少なからず。近く ハ国人が漫ニ外戦ニ熱して始末ニ困ることあるべし。遠くハコンムニズムとレ パブリックの漫論を生することなり。是れハ恐るへきことにして、唯今より何 とか人心之方向を転するの工風なかるへからず。政府などにハ迚もこんな事を 喜〔杞〕憂する者あるへからず。夫れ是れを思へば、本塾を存して置度、ツイ 金がほしく相成候。亦是老余の煩悩なるへし。」

慶應義塾は「人心の方向を転ずる」ための核として、人々の智徳の発達をと もなった文明の進歩に貢献する大切な役割から、福沢にとって改めて重要な意 義を持つものとなっていて、それには大学部があったほうがいいと考えていた と、松崎さんは指摘するのだ。