福沢が慶應義塾に託したもの2010/05/25 05:11

 もう一つは、松崎さんが引用したのは、明治29(1896)年11月1日、芝紅 葉館の慶應義塾故老生懐旧会(三田に移転する前に義塾に学んだ者の同窓会) での福沢の演説だ。 その「演説大意」は、明治29年11月3日の『時事新報』 社説に掲載され、『福澤諭吉全集』第15巻、『福澤諭吉著作集』第5巻に収録 されている。 その一節は「慶應義塾之目的」として知られ、「気品の泉源、智 徳の模範」の語は、今なお慶應義塾のモットーの一つとして尊重されている。

 松崎さんは、演説から三点を挙げる。 (1)慶應義塾が幕末・維新の動乱 期に、唯一の洋学の学塾であったこと。 (2)徳川時代の洋学が医術、化学、 窮理、砲術など物理学だったのを、慶應義塾は世界の地理、歴史、法律、政治、 人事の組織から経済、修身、哲学など文明の精神や制度全体に目を向け、それ が文明の進歩、明治の新日本を出現した。 (3)慶應義塾の特に重んずる所 は、知力以外の、人生の気品にある。鉄砲洲以来、今日に至るまで、固有の気 品を維持して、以心伝心の微妙、先進後進相接して無形の間に伝播する感化力 があった。

 そして「慶應義塾之目的」の部分に至る。 「今日の進歩の快楽中、亦自か ら無限の苦痛あり。老生の本意は此慶應義塾を単に一處の学塾として甘んずる を得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期 し、之を実際にしては居家、處世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみ に非ず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを期する者なれば、今日こ の席の好機会に恰も遺言の如くにして之を諸君に嘱托するものなり。」

 問題は、22日に書いた「みずからの描いた筋書(理想)と現実との乖離に対す る福沢の「無限の苦痛」が、『全集』『緒言』『自伝』を生んだ」というところに 回帰する。

湊邦彦君を悼む<等々力短信 第1011号 2010.5.25.>2010/05/25 05:12

 4月30日、神戸在住の友人、湊邦彦君が亡くなった。 慶應志木高校で机 を並べて以来だから、その付き合いは五十年を超す。 かなり晩く結婚した彼 からは毎年、家族の写真と近況の入った年賀状が来て、正月の楽しみの一つで あった。 「情熱神頼」と題した今年のそれは、「神」の字と、正月3日湊川 神社に初詣している彼のブルゾン、石川県の医大生になったという彼より長身 のご長男の靴の、赤い色が印象的だった。 「新しい年がスタートしました。 一昨年来、闘病の日々を過ごし、みなさまにはご心配をおかけしてきましたが、 たくさんの励ましやご支援のおかげで、また、新しい年を迎えることができま した。食道から転移したがん細胞は、頚・胸部を猛々しく攻め立てていますが、 国立がんセンターでの放射線治療、大阪医科大学病院での化学療法、そして和 歌山県立医科大学でのペプチドワクチン・自己免疫療法など最先端の医療を総 動員し、まさに「人事を尽す」日々を楽しませていただいています」とある。

 6尺5分(183cm)で、6尺1寸ではないと言う長身だった。 仲間と並ん でいる写真を見ると、首一つ出ている。 みんなとは見えている世界が違うか ら、世界観が違うと称していた。 高校生の頃から、明るく、行動的で、世事 にも強く、引っ込み思案な私を、よく旅行などに引っ張り出してくれた。 性 格は違うが、気が合う所があったのは、お互いに自分にない部分を尊重してい たからだろう。 アメ横で安く仕入れた食料品、テントや寝袋を背負って、南 紀、小豆島から四国、富士山、東北の各地を歩いたのは、貴重な経験であり、 思い出である。 岩手の山地、当時何等僻地とか言われていた分校には、児童 書や絵の道具などを担いで行った。 彼がそこの人々との交流をずっと続けて いたことを、最近になって知った。 青年の心を持ち続けていたのだ。

 就職した会社をさっさと辞めて、関西で今ならNPOと呼ぶような地域の活 動を始めた。 同じ戦後民主主義教育の子だから、ベ平連にも関係していたよ うだが、その辺はよくわからない。 その内に、企業のPR雑誌などを編集す る会社を立ち上げて、順調な経営を続け、幸せなご家庭を築いてきた。 学生 時代からやっていたヨットで、ごく最近まで、瀬戸内海はもとより九州あたり のクルージングを楽しんでいた。

 昨年7月4日の「等々力短信」千号の会には、神戸から重篤な病状を押して、 にこやかにやって来てくれたのだった。

  丈高き漢(おとこ)の目路に夏の潮