「横浜と水」の物語2012/04/25 02:46

 「小さな旅」横浜散策の余談だが、元町公園へは2007年 5月に「枇杷の会」 の吟行で来たことがあった。 元町プールや弓道場や記念碑を見て、〈元町に女 生徒の声薄暑かな〉〈緑陰に剽と射た矢の走りをり〉〈ペンキ屋の発祥の地に椎 咲く香〉なんて句を作っていた。

 その時、公園の下の方にある「ジェラールの水屋敷」も見た。 明治の初め に、フランス人の実業家アルフレッド・ジェラールが船舶給水業を営んだ場所 である。 豊富な湧水を簡易水道で中村川まで引き、ハシケで外国船に飲料水 として売ったのだそうだ。 ジェラールの水は、明治期の船乗りたちに「イン ド洋に行っても腐らない」と評判だったという。 海岸通り(バンドbund) の一本裏の道を、水町通り(water street)というのは、船舶給水の店があっ たからだろう。 ジェラールはこの地で、西洋瓦とレンガの製造も手がけ、現 在のプール管理棟の屋根の一部に、その瓦が使われているそうだ。 ジェラー ルが使用した貯水槽は、関東大震災で埋もれていたのが、1988(昭和63)年 に元町公園を整備した時に発見されて、プール管理棟の前に現存し、『ブラタモ リ』の「横浜・港湾編」ではレンガをアーチ状に積んだ広大な貯水槽の内部を 撮影していた。

 居留地の外国人や駐屯軍兵士には、ビールを愛好する者が多く、本国から輸 入していたが、つねに不足していた。 1869(明治2)年、ローゼンフェルト が山手にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーを開設したが、長続きしなかった。  現在の北方小学校付近は当時天沼と呼ばれていて、ここの湧水の質はビール造 りに適していた。 これに目をつけたアメリカ人ウィリアム・コープランドは 1870(明治3)年、ここにスプリング・ヴァレー・ブルワリーという醸造所を 作った。 その製品は「ビアザケ」と呼ばれて親しまれたという。 『ブラタ モリ』「横浜」は確か、その跡を求めて、北方小学校まで行っていた。 

 横浜の山手ではない海手、低地と埋立地の方は、元来海だった土地が多く、 どこを掘っても塩分を含んだ飲めない水しか出なかった。 関内の二か所、町 会所裏(開港記念会館付近)と三井組(本町4丁目付近)に飲める水を汲める 井戸があり、一日中この井戸に水を汲みに来る人が絶えなかったという。 こ のため野毛や太田付近の農家の中には、湧水を汲んで「水売り」として商売を 始める者もいた。

 1873(明治6)年、高島嘉右衛門、添田知通ら横浜の有力者を中心とした上 水道会社が工事を完了、多摩川の水を用水路や木の樋で引いて配水したが、水 もれが各所で起こり、経営は困難を極めた。 県が1883(明治16)年イギリ ス人パーマーに設計を依頼し、相模川から鉄管で水を引く新式水道が完成した のは、1887(明治20)年9月のことだった。

あと十年をどう生きるか<等々力短信 第1034号 2012. 4.25.>2012/04/25 02:49

 兄とやっていた家業のガラス工場を、円満に畳んだのは60歳の時だった。  責任のない、自由な時間がたっぷりあるのは嬉しかったが、一方で、あとは死 ぬだけだという感じもあった。 せいぜい十年かとも思った、その十年が過ぎ てしまった。 先月『福澤手帖』(福澤諭吉協会)152号に「『福翁自伝』の表 と裏―松沢弘陽さんの読みなおし―」を書かせて頂いた。 松沢さんが綿密な 校注をなさった「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(岩波書店) によ って、今まで能天気に面白い面白いと、読んだ積りになっていた『福翁自伝』 が、まったく別の顔を持っていたことがわかった。 81歳の松沢さんより十歳 下の私は、この本の脚注と補注を手掛かりに、『福翁自伝』を読みなおすことか ら、つぎの十年を始めねばなるまい、と告白したのであった。

 葉室麟さんの直木賞受賞作『蜩ノ記』(祥伝社)を読んだのは、2月18日の 「週刊ブックレビュー」の特集で、私より十歳下の作者ご本人の話を聞いたか らだった。 豊後羽根藩の郡奉行から江戸の中老格用人になっていた戸田秋谷 (しゅうこく)は、殿様の側室と密通し、小姓を斬り捨てた疑いで、十年後の 切腹を命じられ、旧所領の村に幽閉、藩の家譜編纂を続けている。 切腹まで あと三年、城内で刃傷沙汰を起こした若い檀野庄三郎が、監視と家譜編纂の手 伝いに派遣される。 庄三郎は、秋谷の揺るがぬ姿勢、家族との温かい暮し、 百姓たちと共に生きようとする在り方に、共感を募らせる。

葉室麟さんは、勤め人は50歳になると、定年が見えてきて、あと十年と考 える、自分も60歳になって、あと十年という感覚があった、と話した。 残 り時間をどう生きるか、を考える。 十年後の切腹という設定は残酷だが、誰 もがいつかは死ぬ。 武士の矜持、覚悟、死の尊厳を描きたかったという。 武 士、イコール日本人のストイックで優しい生き方である。 死に向かう態度が 問題になるが、誰でも死を受け入れ、毅然として亡くなることができる。 葉 室麟さんの念頭には、筑豊炭鉱の上野英信を訪ねた体験があった。 上野は突 然やって来た若い学生に、きちんと対応してくれた。

NHK「日曜美術館」で、その炭鉱の絵が世界記憶遺産に登録された山本作兵 衛を取り上げた時、上野英信の息子・朱(あかし)さんがいい人なのに感心し た。 今、上野朱著『父を焼く 上野英信と筑豊』(岩波書店)を読んでいる。  表題の一篇は、火葬の棺に、著作にどれだけの金と時間と命を注ぎ込んだか知 り尽していた母が、最晩年の作品、大量の本を抱かせた為、係が残業して追い 炊きする大事になった話だ。