上野英信という人 ― 2012/04/26 03:10
葉室麟さんが『蜩ノ記』で、主人公戸田秋谷のモデルにしたという上野英信 とは、どんな人だったのか。 息子の上野朱さんの『父を焼く 上野英信と筑 豊』(岩波書店)から、その足跡をたどってみたい。
本名は上野鋭之進、1923(大正12)年、周防灘に面した山口県阿知須(あ じす)に生まれた。 半農半漁の静かな所、昔は瀬戸内海を通って米や石炭を 運ぶ回船業の町として栄えた。 市場に並ぶ魚はぴちぴちと跳ねている土地、 よく獲れるアイナメは4、5月が旬で、「籾種(もみだね)失い」の異名がある。 余りの美味しさに、苗代作りに保存していた籾種まで食べてしまうということ らしい。 メバルは筍と同時期なので「タケノコメバル」、旧暦の2月8月に 鍋が割れるほど脂がのる「チン」(チヌ鯛=黒鯛)は「ニッパチ月の鍋割りヂン」 という。 どれも旨そうで、上野英信が刺身を好まなかったのは、幼い頃に食 べていた魚の味を舌が覚えていたからかもしれない、という。
父の転職で北九州の黒崎へ移り、旧制八幡中学から満洲国建国大学へ、2年 8か月を学んで1943(昭和18)年12月、兵隊に取られる。 見習士官をして いた宇品で被爆。 筑豊の独身寮や炭坑長屋に木をたくさん植えた上野が、「ぼ くは、夾竹桃は、見たくない」といっていたのは、1945年8月、広島の原子野 に、その赤い花だけが咲いていたからだ。 敗戦後、編入学した京都大学文学 部中国哲学科を中退、最終学歴を問われると「京都大学首席中退」と答えてい たという。
中退後、九州で「一生、ひとりの坑夫として生きたい」と願って、炭坑労働 者となる。 しかし、原爆症と石炭産業の斜陽化、そして文学への欲求は、ツ ルハシをペンに持ち替えさせた。 1958年、谷川雁、森崎和江らと炭坑や農山 漁村の労働者の連帯と革命を掲げた自立共同体「サークル村」を結成、機関誌 『サークル村』を刊行する。 1960(昭和35)年、『追われゆく坑夫たち』(岩 波新書)を出し、筑豊在住の記録文学者として知られるようになる。 1964(昭 和39)年、妻晴子、長男朱(1956生れ)と三人で、筑豊炭田の片隅の廃坑集 落・鞍手に移住した。 筑豊の地底から追われた炭坑夫のために一生を捧げる、 筑豊を根城として日本の近代と戦うという決意のもとに…。 競売物件の崩れ かけた炭坑長屋一棟と共同便所を9,500円で買い取り(その年、学校を出て就職した私の初任給は21,000円だった)、補修して「筑豊文庫」 と名付け、地域のための公民館兼図書館、ゆくゆくは労働者のための文化セン ターに育てたいと考えていたのだ。
上野英信は、炭坑長屋の名残をとどめる、その「筑豊文庫」で後半生を過ご し、1987(昭和62)年11月に食道がんのため64歳で亡くなった。
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