福沢の徳川家康評価と「ペルリ紀行」 ― 2015/04/06 06:33
3月28日、福澤諭吉協会の土曜セミナーがあった。 桂木隆夫学習院大学法 学部教授の「福澤諭吉と徳川家康―福澤諭吉の公共思想をこれまでとは違った 角度から理解する―」。 桂木さんは1951年生れ、早稲田大学政経学部を出て、 東大大学院政治経済学研究科博士課程修了、成蹊大学法学部助教授、教授を経 て、現職。 専攻は、公共哲学、法哲学。 昨年『慈悲と正直の公共哲学―日 本における自生的秩序の形成』(慶應義塾大学出版会)を刊行し、その本で講演 の問題を詳しく論じているらしい。 福沢と徳川家康、今まで関係づけて論じ たのを聞いたことがなかったので、どんな話になるのか、楽しみにして出かけ たが、最初から初耳の「ペルリ紀行」などという興味深い訳文が出て来た。
福沢は、徳川幕府と徳川家康について頻繁に言及している。 徳川幕府につ いてはその封建制と専制政治を厳しく批判して否定的だが、徳川家康について は肯定的なニュアンスが多い。 徳川家康は、乱世の後を受け、三百年の太平 を開いた父母だという。 以下、()内は、馬場註。
福沢が徳川家康に実質的に関心を持つようになったのは、慶應元年に福沢が 翻訳した「ペルリ紀行」(全集7巻560‐3頁、「新聞譯 三」(幕末英字新聞訳 稿)ペルリ紀行抜萃譯)からである。(幕末黒船のペリーで、岩波文庫『ペルリ 提督 日本遠征記』(一)だと101-107頁、序章の第五項「過去における同帝国 (日本)と西方文明諸国との関係概観」の内「イギリス人」の部分だ。) 福沢 の徳川家康への関心は、この早い段階からのもので、実はペリー体験と深く結 びついていて、文明論と徳川家康がセットになっている。 ペリーはここで、 徳川家康の外交姿勢について、アダム・スミスの自由経済(貿易)論に匹敵す るような考え方であると評し、日本(幕府)の最初の方針は鎖国ではないとし た。 (『日本遠征記』によると(()内は福沢訳の表記)、1613年6月11日、 英国の船長ジョン・セリス(サリス)のクローヴ(コローウ)号が、平戸侯宛 の英国王ジェームス一世の宸翰及び皇帝宛の親書と贈物とを用意して、平戸に 着いた。平戸侯は江戸と打ち合わせ通訳ジョン・アダムスを呼び寄せ、通商に ついて協議し、8月初め、セリスはアダムスと他に10人のイギリス人の一行で、 平戸侯所有の五十挺艪の船で江戸へ行く。皇帝に謁見し、慇懃に迎えられた。 そして皇帝の秘書(宰相)との間でわずかばかりの商議を行った後、通商の特 許(貿易免許状)を得た。)
福沢訳の貿易免許状の一節。 「東印度の商社は、その船に品物を積んで我 が日本帝国の諸港に来ること勝手次第たるは永久の免許なり。また他の諸国と の商売を為す同様の例に従って、我が国に在留し物を買い物を売りあるいは交 易し、かつ在留の時日は限りなく出帆の時限も勝手たるべし。」 (「右は全く 寛大なる免許にて、之に由て考れば、日本国本来の政は決して鎖国にある(ら) ざること知るべし。其後多年の間、港を鎖して文明諸国と貿易するを許さゞる 厳法の行れたるは、欧羅巴人の自ら為せる所なり。即ち日本人は外国人の来て 其国を奪んとする悪意あるを発見せしより、之を防ぐに簡易の法として、盡く 外国人を其国より追出し再渡を禁じたるなり。……日本国を奪んとて徒党した るは欧羅巴の教化師にて、其宗門を以て権謀の基と為したるが故に……」)
家康のジェームス一世への親書の一節。 「殿下との懇親を永続せんことを 願い、殿下の臣民、我が国に来たらば、いずれの港にても懇親をもってこれを 待遇すべし。実に諸国を発見し貿易を為さんとするの美事を企て、万里の波濤 を恐れずしてかく遠隔せる我が国を容易に発明したる航海の術は、驚くべくま た称すべきなり。」 (差出人は、「我が国年紀に従い、ダイリの第十八年(慶 長十八年)九月四日駿河城に於て 殿下の親友日本国最上の号令を司る者 源 家康」)
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