福沢「未完の文明論」の手がかり2015/04/07 06:35

 桂木隆夫教授は、これまでは福沢の公共思想は『文明論之概略』を基準(到 達点)として考えられていたけれど、明治維新の後、日本の文明と一国の独立 のあり方が最も問われた時期、すなわち明治14年の政変をへて、『時事新報』 の創刊から帝国憲法の発布と国会開設に時期においてこそ、福沢は「未完の文 明論」ともいうべきものを模索したのではないか、とする。 福沢は、明治23 年に帝国議会の開設直後『時事新報』に掲載した「国会の前途」で、徳川家康 と天下泰平、政治秩序(公共秩序)のサステナビリティ(持続性)を高く評価 した。 「万国の歴史古く治乱少なからずといえども、人口三千万の一国を治 めて二百五十年の久しき国中寸鉄を動かさず、上下おのおのその所に安んじて 同時に人文を進歩せしめたるものは、世界中ただ我が徳川の治世あるのみ。実 に絶倫無比の偉業にして、その治安の大策、はたして徳川家康公の方寸になり しものとすれば、公はただに日本国の一人にあらず、世界古今絶倫無比の英雄 として、共に功名を争うものなかるべし。」

 福沢が、徳川家康と天下泰平に言及したのには、明治維新と明治政府を念頭 において、国会開設後の政治秩序のサステナビリティ(明治日本の天下泰平・ 独立)のために明治政府がいかにあるべきかを、考えたからである。 それに は二つの方法、「二様の平安策」がある。 (一)「今の政府をそのままにして、 薩長合体藩閥政治と公言して、その地位を維持する」こと。 (二)「国会議場 を政権授受の活劇場と定めて勝敗を争い、国民の輿望に任せて極めて手軽に内 閣の新陳更迭を行う」こと。 国会開設となれば、(一)には無理がある。 端 的にいえば、明治政府には福沢が高く評価した徳川家康がいないから、「真実中 心より一人の首領を戴」けないからである。 (二)によらざるを得ない。 (明 治12年の『民情一新』で、政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、 世論の不満を解消する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリ スモデルの議院内閣制を説いた。)

 福沢の問題関心は、終生、「日本という国がサステナブルである(持続的に独 立の状態を維持する)ためには、日本文明はどのようにあるべきか」という問 いにあった。 ただその「真の文明論」を明らかにするという作業は未完に終 わった。 「未完の文明論」の手がかりは、『時事新報』の上述「国会の前途」 と、明治26年1月27日から2月4日にかけて掲載された官民調和論である。  明治政府の官民不調和では、日本文明=日本のサステナビリティ(独立の持続 力)は危うい。 官民調和論は明治政府の現状への不満、批判で、そのために 何が必要かというと、「国会の前途」に手がかりがある。 そこでは絶対君治の 政治体制と君民同治の立憲体制を区別した上で、君民同治の立憲政体のサステ ナビリティという観点から、徳川家康の「公智」を考察している。 そのポイ ントは三つ。 権力平均の主義(最も重要)、法を敬して法を弄ぶことなきの習 慣、民心に染み込みたる自治の習慣。

 権力平均の主義について、徳川の時代、まず将軍の至強と朝廷の至尊という ことを挙げ、「これを第一の平均として、これより諸侯と公卿との釣合を見れば、 公卿は位高くして禄少なく、諸侯は禄豊かにして位卑し」、さらに「徳川にては 小臣執権の制を定めて、将軍の同族は勿論、すべて大諸侯の一類は幕政に参る を許さず」、「老中は政権を以て大諸侯を御すること大人の小児に於けるが如く なれども、家の実力身分の一点に至りては遙かに下流に位して……双方共に強 きが如くまた弱きが如く……平均の妙を得たるものと云ふべし」。

 福沢は、この三つのポイントを包含する広い意味での権力平均の主義が、徳 川家康の「公智」、徳川の絶対君治の天下泰平のエッセンスを表現するだけでな く、明治の君民同治のサステナビリティを可能にするものでもあると考えてい た。

 その時、日本は文明の道に進む入口に立っていた。 日本の独立と、公共の 秩序を織り込むことは不可分である。 明治23(1890)年から昭和20(1945) 年まで、55年で独立さえ失うことになった。

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