福沢諭吉の「漫言」と、ジョークの鼓吹―『開口笑話』 ― 2025/01/16 07:05
JR湘南新宿ライン宇都宮線で大宮へ<小人閑居日記 2021.12.14.>
北沢楽天のさいたま市立漫画会館<小人閑居日記 2021.12.15.>
福沢と北沢楽天(清水勲さんの「福沢諭吉と漫画」再録)<小人閑居日記 2021.12.16.>
北沢楽天デビュー政治漫画の発見<小人閑居日記 2021.12.17.>
飯沢匡さんの「知られざる福沢諭吉」<小人閑居日記 2021.12.18.>
福沢の「ちんわん之(の)説」<小人閑居日記 2021.12.19.>
宣伝絵画の嚆矢―伝単「北京夢枕」<小人閑居日記 2021.12.20.>
福沢諭吉の「漫言」とは何か<小人閑居日記 2021.12.21.>
「漫言」の「笑い」は文明開化の有力な武器<小人閑居日記 2021.12.22.>
「漫言」は、なぜ書かれたか<小人閑居日記 2021.12.23.>
福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』<小人閑居日記 2021.12.24.>
福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』<小人閑居日記 2021.12.24.>
飯沢匡さんの『武器としての笑い』の「ジョークの鼓吹―『開口笑話』の重要性」にある『開口笑話』についても、書いていたのを再録する。
ジョークをひろめようとした福沢諭吉の失敗〔昔、書いた福沢29〕<小人閑居日記 2019.3.9.>
広尾短信 58 1976(昭和51).10.5.
ジョークをひとつ、題は「記憶をよくする法」。 わしもだんだん年をとって記憶の悪くなったのには困るよ/先生、それはすぐに直す方法があります/どんな方法かね/私に五億円貸してごらんなさい。
「欧米を漫遊して帰国すると日本では一夕の宴に小噺を語る人が少ないことに気がつく」とは加藤周一さんの感想だが、外人に「今、日本で流行っているジョークを教えて下さい」といわれて喜劇一筋の飯沢匡さんでさえ狼狽するというのだから、欧米での社交術の重要部分をなすジョークが、日本でどれだけ無視されてきたかがわかる。
飯沢さんの発見によると明治二十年代に早くもこの風潮に気付いた福沢諭吉は、長男一太郎訳で『開口笑話』という英和対訳のジョーク集を出して啓蒙に乗り出した。 それが失敗したのは今日ごらんの通り。 冒頭のは全集二十巻所収の福沢諭吉訳のジョークをほんの少し現代風にアレンジしてみた。
(註・1976(昭和51)年は、2月にロッキード事件が発覚、7月27日事件当時の首相だった田中角栄が逮捕された。)
万年の春〔昔、書いた福沢39〕<小人閑居日記 2019.3.20.>
万年の春<等々力短信 第479号 1988.(昭和63).11.15.>
飯沢匡さんの福沢諭吉論で、私が共感している第一点は、福沢のユーモアを高く買っていることである。 一昨年の暮、飯沢さんは、福沢の『開口笑話』(明治25(1892)年刊)という対訳ジョーク集を発掘して、みずから現代語訳を付け出版した。(冨山房刊) 『開口笑話』は「福沢諭吉閲、(長)男一太郎翻訳」ということで出版されていたために、福沢全集にも、ごく一部しか収録されていない。 福沢の、この早い時期での、ジョークの紹介と鼓吹は、残念ながら実を結ばなかった。 儒教的精神に凝り固まった当時の識者たちに受け入れられなかったばかりでなく、今なお日本人にはジョークを楽しむ感覚が根づいていないというのが、飯沢さん、年来の主張である。 福沢諭吉のユーモア、特に漫画との深い関係については、飯沢さんの岩波新書『武器としての笑い』に詳しい。
第二は『帝室論』だ。 『異史 明治天皇伝』のなかで、飯沢さんは福沢の『帝室論』を高く評価している。 明治15(1882)年に発表された『帝室論』で、早くも福沢が今日の目で天皇を論じ、そこには「象徴天皇」の像がはっきりと浮び上っている、と指摘する。 さらには、福沢が逸早く、天皇が政治家によって政治的に利用される弊害を見越して、「帝室は政治社外のものなり」と簡潔明快に言い切った先見性に、敬服している。
『帝室論』百年だった1982(昭和57)年、等々力短信257号(吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)に、こう書いた。 「吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうなければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを話したのが、武見太郎さんだった。 早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうといい出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災の怪我がまだ治っていないからと断る。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいことなので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使って、高橋さんを官邸へ連れ込む。」
このエピソードは、武見太郎さんの『戦前 戦中 戦後』(講談社)に書かれている。 その時、私は「帝室は政治社外のものなり」と一緒に「我が帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」と「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば、悠然として和気を催ふす可し」も、引用した。
いま、三度目の『帝室論』の季節が、めぐってきたようである。
福沢先生誕生記念会の、福沢家代表挨拶 ― 2025/01/15 07:09
第190回福沢先生誕生記念会の、福沢家代表挨拶は福沢達雄さんという方だった。 福沢諭吉は高祖父、次男捨次郎の曾孫、以前この会で挨拶したTBSのテレビドラマ『半沢直樹』のディレクター、福沢克雄の二つ下の弟で、伊藤公平塾長とは幼稚舎の同級生だ、と話した。 蹴球部(ラグビー部)の厳しい練習で、独立自尊を徹底的に教え込まれた。 旭硝子、AGCで10年以上、アメリカやアジアで海外勤務したが、自分と福沢諭吉の関係を知らない人から、しばしば福沢先生の話題が出て、その影響力に驚いた。 三田で思い出すのは、ラーメン二郎で、山田大将から、蹴球部なら、へこたれない、キツイことをやってきたのだから、社会を支えろ、花となるより咲かせる根となれ、と言われた。
福沢家代表挨拶、去年は福沢博之さんという方で、玄孫(やしゃご)で、福沢の子孫は合計602名、現在8代目世代までいる、と。 福沢の精神は、親からよりも慶應で自然に学んだ。 水球をやったが、下級生の時は、ひたすら与えられた練習をしたことが役立ち、先輩やコーチから長所を生かすこと、延ばすことを指導された。 それを自分なりに考えて、チームの力にしたのが、独立自尊の精神かと思うと話した。 福沢先生は偉丈夫だったそうだから、先生の子孫に、体育会が多いのだろう。
一昨2023年の福沢家代表挨拶は、福沢達雄さんの兄、福沢克雄さんで、同じラグビー選手(旧姓山越)、1986(昭和61)年1月15日上田昭夫監督の下、トヨタを破り日本一になった。 その挨拶を聞いて、私は、福澤克雄さんの、福澤「心訓」発言に驚く<小人閑居日記 2023.1.17.>を書いている。 福沢克雄さん、福沢先生の「孫の孫」、次男捨次郎さんの子、時次郎さんの娘和子さんの子、ご両親の離婚で福沢姓に戻ったそうだ。
会社をやっていた時は、10日が支払日だったので、1月10日の福沢先生誕生記念会に、なかなか行けなかったが、2002年に会社の清算を済ませて、閑居生活に入ってからは、毎年出席できるようになった。 記念講演については、いろいろ書いているが、福沢家代表挨拶については、あまり触れていない。 ずっと長男一太郎さんの孫、眼のご不自由な福沢範一郎さんが(46回休まずの由)がなさっていたが、2009年の第174回から次男捨次郎さんの孫、福澤信雄さんに代り、2010年の第175回も福沢信雄さんだったことが書いてあった。 信雄さんは、福澤諭吉協会の旅行で、ご一緒したことがあった。 捨次郎さん(と菊さん(林董の娘))の子、時次郎さんに、信雄さん、武さん、和子さんがあり、克雄さんと今年の達雄さんは和子さんの子ということになる。 福沢家代表挨拶、信雄さんの後は、武さんがなさっていた。
福沢武さんは、2007年の第172回で記念講演「私にとっての福澤諭吉」をなさっていたので、それは書いてあった。
福澤武さんにとっての福澤諭吉<小人閑居日記 2007.1.11.>
1月10日は福沢諭吉の誕生日、「第百七十二回福澤先生誕生記念会」で三田に行く。 記念講演は三菱地所会長で慶應義塾評議員会議長の福澤武さんの「私にとっての福澤諭吉」だった。 福澤武さんは、諭吉の次男捨次郎の孫、いつも(46回休まずの由)この会に福沢家代表でご出席の範一郎さんは長男一太郎の孫だそうだ。 武さん(1932(昭和7)年生れ)は、子供の頃、家で諭吉の教えとか、家訓といったことは、聞いたことがなかった、という。 父親が2歳半の時に、諭吉は亡くなっている。 捨次郎(1926(大正15)年歿)の妻である祖母菊も、そういう話はしなかった。 ただ一つ、結婚した時、捨次郎が大きな犬を飼っていて、その犬が恐かった、それを聞いた諭吉が捨次郎に家の中で犬を飼うのをやめさせた、という話を聞いただけだった。
幼時の記憶としては、講談社の絵本に偉人の特集があり、諭吉が出ていた。 上野の山の戦争の最中も、経済書を講義し、学問を続けた話だったが、1938,9(昭和13,4)年のことで、まだそういう内容でも大丈夫だったわけだ。 ほかに偉い人の子供のエピソードを集めた本で、お稲荷さんの石ころの話(ご神体を取り替える)を読んだ。 1939(昭和14)年に幼稚舎に入り、清岡暎一(諭吉の三女しゆんの長男)舎長の合同(?)修身の授業で諭吉の話をいろいろ聞いたのだろうが、咸臨丸の航海で柱に身体をしばりつけて食事をしたというのを憶えているだけだ。 「福澤の大(おお)先生」という歌などで、近寄りがたい人というイメージを持つようになった。
20歳ぐらいで『福翁自伝』を読み、福沢観が変った。 全篇、感激、感動し、豊かな人間性を感じた。 諭吉はごくその辺にいる若者と同じで、愉快な人間である所に、親しみを感じた。 酒豪で、酒を止めようとして、タバコまで喫むようになった話、ロシアで外科手術を見て貧血を起こした話など、弱点を飾らずにオープンに書いている。 自分は下戸なので、酒飲みは受け継いでいないが、幼稚舎でモルモットの解剖を見ていて、顔が寒くなって、下がって座っていたことを思い出し、その点は譲り受けているという大発見をした。
円満なヒューマニスト、前向きで明るい人<小人閑居日記 2007.1.12.>
福澤武さんの講演の続き。 案外、知られていないのは諭吉が英和対訳のジョーク集『開口笑話』(1892(明治25)年)を出していること。 埋もれていたのを20年ほど前、飯沢匡さんが現代語訳を加えて冨山房から出した(絶版)。 たとえば、こんな小噺がある。
ある人が息子を将来何にしたらいいか知りたいと思い、部屋に聖書とリンゴとお札(紙幣)を置いておいた。 もし聖書を読んでいたら牧師に、リンゴを食べていたら農家に、お札を手にしていたら銀行家にしようという考えだった。 帰ってみると、息子は聖書を尻に敷き、お札をポケットに入れ、リンゴをかじっていた。 その人は息子を政治家にした。
序文で福沢諭吉は「教育の目的は才能や道徳の発達を促すものであるが、その方法はいろいろあるだろう。中でも、変ったことを言って人の注意をよびさまし、笑いの中に無限の意味を持たせ、自然に人生や社会の姿を理解させるのなどは、教育法の早道だ。この本の笑話は、文は短いが、意味するところは長い。小噺をよく味わえば、人生の日常に益するところが少なくない」といい、ジョークの価値を認めている。 独立、学問、文明の価値を説いた福沢だが、ジョークの価値も認めていたのだ。
『福翁百話』は晩年、客との話をメモしてまとめたものだが、広範な問題を論じて、わかりやすい。 そこに現れた福沢の姿勢は、文明の進歩への確信で、きわめて明るいものだ。 飯沢匡さんは『開口笑話』の解説に「私が福沢諭吉に惹かれるのは、彼がどんなに毒舌をふるっても、明るくて陽性だからである」と書いている。 福澤武さんにとっての福沢諭吉は、円満なヒューマニスト、前向きで明るい人である。 そうした姿勢でないと社会の先導というようなことはできない。 創立150年を迎える慶應義塾も、そういう姿勢が求められているのではないか。
杉山伸也さんの「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」後半 ― 2025/01/14 07:00
1875(明治8)年の『文明論之概略』では、進歩史観が見られる。 中国(清)やイギリス、ロシアとの対内的、対外的関係で、日本の存立が危ぶまれる。 日本は半開で、文明の精神が必要だ、文明国になる必要を説いた。 単に有形の制度や物質にとどまらず、無形のもの、すなわち国民全体の智徳の進歩が伴わなければならないという、文明の主義を主張した。 一身独立して一国独立、一国独立のためには一身独立が必要だ。
『民情一新』の第5章は「国会論」、イギリス式議院内閣制の導入と、大政党による政権交代の必要を説くため、先行して『郵便報知新聞』に藤田茂吉と箕浦勝人の名前で出した。 先行研究では、この「国会論」によって『民情一新』を政治論にしていて、19世紀文明論が正当に評価されないことになっている。 1870年代後半、慶應義塾は経営危機の時期にあり、福沢は新しい文明論を早く知らしめたいと、短期間で執筆した。 1870年代後半の世界は、外交関係が穏やかで、独立についての危機感がなかった。 一方、国内は大混乱、自由民権運動の激化、士族の反乱があり、政府は復古主義的傾向を強めていた。 それに対し、福沢は自分の言葉で書き下ろした『民情一新』を自信作だとして、留学中の一太郎、捨次郎への手紙で(明治17年1月16日付、書簡集第4巻書簡番号824)、『民情一新』を送り、英訳して新聞に投書し、さらに英語版まで出そうと考えている。 記念碑的著作なので、(1)外国人の日本事情の認識、(2)日本の学者の思想を英語で表現、(3)日本の学問の国際化を図りたい、と手紙に書いている。
『民情一新』の第3章は、「蒸気船車、電信、印刷、郵便の四者は、1800年代の発明工夫にして、社会の心情を変動するの利器なり」。 技術革新が歴史の進歩の原動力で、人間内部の精神まで動かす。 『民情一新』の序文は文明論で、蒸気の発明、科学技術の発展によって、19世紀は違う時代なんだと説く。 『文明論之概略』で説いた無形の文明の精神から、有形の実物、科学技術の方が重要なんだと、考え方が変わっている。 郵便印刷は、情報通信の手段、思想通達の利器。 インフラの重要性、とりわけ鉄道が大切だとする。 電信は、西南戦争で全国的なネットワークが出来たことを、高く評価。 新聞は人間交際の手段、前年に178紙あり、全国に広まった。 『西洋事情』が現実になっている。 文明の利器とともに、社会が進む、日本の将来は明るい。
「智徳」、智は学びて進むもの。 知恵には教え、教育が重要。 『文明論之概略』のインテレクトから、『民情一新』はインフォルメーション。 知恵こそが文明の精神で、蓄積される。 科学技術は、知恵の結晶。
西洋はもはや標準にするにあたらない。 日本は自らの道を進まなければならない、自立の必要性。 『民情一新』は、科学技術を組み込んだ『文明論之概略』。 「文明論」の到達点、後期福沢の出発点。
2001年に、e-Japanイージャパン構想というのがあった。 日本政府が掲げた日本型IT社会の実現を目指す構想。 しかし、日本のデジタル化は遅遅として進まない。 2023年のデジタル貿易の赤字は5兆3千億円、物の貿易赤字に匹敵する。 生成AIのツールで福沢研究を進めるような、未来に向けた知的環境をつくっていくことを、福沢は望んでいるのではないか。
杉山伸也さんの「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」前半 ― 2025/01/13 07:06
第190回福沢先生誕生記念会、記念講演は、杉山伸也名誉教授の「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」だった。 昨年8月刊行の著書『近代日本の「情報革命」』(慶應義塾大学出版会)第7章の表題だという。 杉山さんは、今年は昭和100年、戦後80年にあたるが、30年の停滞で実質50年、半世紀といってもいい。 自分は団塊の世代だが、敗戦の1945年から80年前は1865年、明治より前になる、その80年は短いにもかかわらず大きな変化があった。 日本の歴史と貿易の関係が専門だったので、福沢全集はここ数年で読んだ。
『民情一新』は明治12(1879)年、福沢44歳の作、文庫本で80ページほどのものだが、内容が凝縮している。 インフラ、通信ネットワークの構築、地方自治など。 福沢の主張は、1880(明治13)年前後を境にして、前後に分かれるといわれる。 前期福沢と後期福沢。 1881(明治14)年の政変からは、ジャーナリズムの時代で、『時事新報』などで具体的なテーマを議論している。 その分岐点が『民情一新』で、ストレートに、前向き、楽観的な考え方を展開している。 それは緒方塾の影響が大きく、自然科学の最先端、科学主義、論理的、合理的なサイヤンス(実学)を強調する。 反対に、儒学は虚学だと。 福沢は、学問の要諦は、物事の関わり合う関係性、因果関係だとする。 今で言う文理融合を体験しているのだ。
歴史の見方。 福沢は1891(明治24)年に書き、晩年の1901(明治34)年に発表された『瘠我慢の説』で、勝海舟と榎本武揚の明治になってからの出処進退を批判した。 これに対する徳富蘇峰の批判を、研究者に引きずられた資料至上主義だと反論して、幕末の実状、時代の感覚を知らないものだと一蹴した。 時代を共有し、歴史の中の今、特定の場所が重要だ。 明治日本は、どういう時代だったのか、産業革命の直後、交通運搬通信革命の時代で、条約改正が重要課題だった。
福沢は、どういう情報を持っていたか。 取り巻く情況の変化をとらえていた。 三回の欧米体験、特に二回目の遣欧使節が大きかった。 日本を欧米との関係で見られるようになった。 ヨーロッパへの途次、中国(清)やセイロンの住民がどう扱われているかを見て、日本とアジアを実体験し、日本とアジアの相対的地位を認識した。 『西航記』「西航手帳」には、鉄道の記述が多く、電信、新聞その他、「文明の利器」を実際に体験した。
第190回福沢先生誕生記念会、伊藤公平塾長の年頭挨拶 ― 2025/01/12 08:03
10日は、第190回福沢先生誕生記念会で三田へ行った。 私の唯一の自慢は、大阪堂島の生誕地で開かれた第125回福沢先生誕生記念式典に、志木高校から派遣されて参加したことだ。 第190回ということは、65年が経ったことになる。 あと1年で福沢先生の生きた年数に重なる。 長く健康で生きてきたことに感謝しなければなるまい。(50年前、大阪での福沢先生誕生記念祭<小人閑居日記 2010.1.10.>、杉道助さんの挨拶、板倉卓造さんの講演<小人閑居日記 2010.1.11.>、小泉信三さんのスピーチ「私立学校の幸福」<小人閑居日記 2010.1.12.>参照)
さて、今年の伊藤公平塾長の年頭挨拶。 いずれ『三田評論』で読めると思うが、私の大雑把な聞き書きを綴ることにする。 現在の世界は、自国中心主義、AIなど科学を使える国と使えない国の格差など、さまざまな分断を、どうしたら正しく乗り越えるかが課題である。 福沢先生は、その指針を示していた。 世界の動向を学び続けて、信念を持って発信した。 社会とディベートし、凝り固まることなく、柔軟な姿勢で、しかしその信念は首尾一貫、社会を先導するものであった。
昨年3月27日、中央教育審議会の「高等教育の在り方、将来像」を議論する特別部会で提言をした。 大学に進学する18歳人口は110万人で、多い時の45%ぐらい、2040年には77万人と今から30%減る、60年前の30%になってしまう。 急激な人口収縮で、日本の次のステップを、根本から考え直す必要がある。 福沢先生は、一身独立して一国独立と、現行システムの変革を、一身にして二生を経る時代に説いた。
1877(明治10)年、官立大学卒の給料は私学の10倍、徴兵猶予の優遇もあった。 福沢先生は、社会の発展は、民の自由な発想から、教育は私なり、と言った。 そこで、私(塾長)の15年後の「高等教育の在り方」の提言だが、三つのポイントがある。
(1)質。 知の総和を増やす。 文系理系共に、大学院を当り前にする。 文系を5年にし、理系は4,5年の修士博士課程、大学生の底上げを図る。 一方、大学生のボリュームゾーンは、偏差値50前後だが、一生胸を張って働ける教育をする。 現在は、学部3年で就活に時間を取られ、野菜の早採り状態で、よい野菜にならない。
(2)規模。 現在800ある大学の数を減らす。 学納金を高く設定する、150万円は必要だ。 現在国立で54万円になっているのは、200万円以上の税金を投入しているからで、それはふさわしくない。 欧州では無料だというが、全てが国立で、アメリカは7割が州立だ。 日本は国公立が2割しかない。 国公立と私立が、公平に競争できるようにすれば、自己変革できる大学が残ることになる。
(3)アクセス。 大学の地域分布、学生の懐事情から、大学が大都市に集中してしまう。 学納金が150万円では進学できないから、最先端の科学技術、マイナンバーカード制度を活用して、世帯収入に応じて、国から支援金を連絡し、返済もマイナンバーカードを利用する。 15年後の「高等教育の在り方」だ。
人の話を聴き、本を読むには、集中力が必要だ。 SNSの短いやり取りばかりしているので、まとまった話をする習慣がなくなっている。 「高等教育の在り方」の特別部会の議論も、寄せ書き、寄せ集めで、私のようにパッケージの文章として提言した人はいなかった。 文明の利器の最先端に立つことが必要で、日吉でもAIを使いこなす伝授が始まったし、慶應AIセンターを研究メンバー企業6社と設立し、AI・ロボティクス研究で世界トップの米カーネギーメロン大学と提携、科学研究向けの生成AI研究とAI技術の進化の加速を目指している。 それは独立自尊、人間の尊厳に結びつき、医学も含めて、科学技術と社会の先導である。 慶應義塾では教員の3分紹介(ホームページのK-RIS研究者情報データベースやYouTubeチャンネル)を行っているが、実に多くの教員が、弱者に寄り添い、光を当てる研究に携わっていることがわかる。 それらを総合すれば、社会を変革する先導となる。 力をあわせて、高等教育を変革していきたい。
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