『俳諧』は「だじゃれの言い合い」2008/07/17 07:22

 「青田」と「百合」の句会のあった10日、出かける前に、前日に放送され た「その時、歴史が動いた」を見た。 「古池や蛙飛こむ水のおと~松尾芭蕉・ 人生を映した十七文字」、これが“目からウロコ”で(この紋切型は使わないよ うにしているのだが、その禁を破ってもいいほど)、実によくまとまっていて、 漠然と知ったような気になっていたことが、ああそうだったのか、と、よくわ かったのだった。 しかし、当日出す句は既に出来ていたから、その貴重な得 心は、句会には反映されなかった。

 伊賀上野生れの松尾宗房(むねふさ・のちの芭蕉)は、寛文2(1662)年19 歳で地元の上級藩士の家に仕官した。 その家の跡取り、2歳違いの藤堂良忠 に、『俳諧』の手ほどきを受ける。 『俳諧』は、おどけ、たわむれ、言葉の遊 びであった(ゲストの俳人で芭蕉研究家の長谷川櫂さんは「だじゃれの言い合 い」といった)。 良忠は「貞門」に属して蝉吟(せんぎん)と号していた。 松 永貞徳を祖とする「貞門」は、古典派で、古典の教養からくる俳言を用いる。  たとえば〈花よりも団子やありて帰る雁〉と、花、雁などを詠み込む。 良忠 の蝉吟に古典的教養を教わった松尾宗房は、宗房(そうぼう)と号して、身分 の差を越えて楽しめる『俳諧』の世界にのめり込んでいく。 しかし『俳諧』 で得た心の自由はわずか4年で終わることになる。 藤堂良忠が死ぬのだ。