漱石が『坊っちゃん』を書いた理由2012/03/11 04:51

 「等々力短信」の読者で、長野市在住の先輩が、半藤一利さんの文化講演の 記録を送ってくださった。 「夏目漱石『坊っちゃん』を読む」、八十二文化財 団の主催で、昨年10月10日、長野市ホクト文化ホールで行われたものである。

 夏目漱石が博士号を断った話は有名だが、入学試験の監督を断ったという話 は知らなかった。 半藤さんは、その件があって漱石が『坊っちゃん』を書い たと、推理するのだ。 『坊っちゃん』は、明治39年の3月中旬、恐らく3 月17日から24日までの一週間で書き上げた小説である。 400字詰め原稿用 紙で約250枚を一気に、無我夢中になって書いたという感じだ。 当時は大学 の先生と小説家の二足のわらじだったので、『我輩は猫である』は前年明治38 年1月に一章を書き始め、十章まで書き終えたのが明治39年3月13日頃、そ れから4日後、最終の十一章を書かずに、憑かれたように『坊っちゃん』を書 いている。

 半藤さんは、何かあるに違いないと調べる。 その年の2月、東京大学文学 部英文科の入学試験で、教授会は夏目金之助講師を試験委員に選んだ。 夏目 講師は「忙しいからお断りする。試験問題を作るのは教授会なんだから、試験 問題を作った人間が採点するのが一番正確だ。採点や細かいことは全部講師に 押し付けるとはけしからん」と、教授会の命令を突っぱねた。 教授会は驚い た。 東京大学始まって以来、そんなことを言い出す奴は誰もいなかった。 教 授になりたいと思っていれば、そんなことをするはずがない。 大騒ぎになっ て、忠告してくれる人もいたが、夏目金之助講師は押し通した。

 半藤さんは、当時漱石は39歳だから、相当覚悟を決めてこういうことをや ったのだろうと考える。 しかし、自分で自分の出世の道を断ち切ったような ものだから、思い惑うこともあったろう。 そして、ある日突然「そうだ、東 京大学のことを書いてやろう」と思い立つ。 「そうだ、俺の松山中学時代の 体験を後ろに置いて、御大名風、御役人風、形式的になっているこの東京大学、 学問の世界がいかに馬鹿馬鹿しいものであるかということを書いてやろう」と 思ったに違いない、というのが半藤さんの推理だ。

 『坊っちゃん』の「赤シャツ」、金鎖の時計を提げて、赤い表紙の『帝国文学』 を小脇に抱えて「ホホホホ」と笑う。 半藤さんは、自分も東京大学を卒業し たから、東京大学の先生を知らないわけではない、東京大学には、そんな上か らの権威だけがあるような顔をして、平然としている教授が山ほどいる、と言 う。 漱石が講師をしていた明治39年頃から、東大で既にそういうことが始 まっていたことが分かるわけだ、と。