復興再生のモデル地区、浅草2013/06/14 06:16

 本堂の東側、二天門を見る。 元和4(1618)年の建築で、第二次世界大戦 にも焼け残った貴重な建造物である。 もともとは浅草寺境内にあった東照宮 (徳川家康を祀る神社)の随身門(ずいじんもん)で、東照宮自体は寛永19 (1642)年の焼失後、再建されていない。 随身門には豊岩間戸命(とよいわ まどのみこと)と櫛(くし)岩間戸命の二神が祀られていたが、明治の神仏分 離の際、二神を廃し、鎌倉鶴岡八幡宮の経蔵にあった二天を奉安して「二天門」 と改称した。 「二天門」の扁額は、最後の太政大臣三条実美(さねとみ)の 明治16(1883)年筆。 その二天像は戦時中に修理先で焼失、現在の持国天 と増長天は、上野の寛永寺墓地にある厳有院(第4代将軍徳川家綱)霊廟から 移されたものという。

浅草神社に厄年の表があって、ふつうの社寺では60歳で終っている表が、 その上もあり、数え73歳(昭和16年生)も厄年であることがわかった。 「八 方塞」(はっぽうふさがり)とあった。 お賽銭を上げる。

ボランティアガイドの解説、最終は戦災公孫樹。 樹齢8百余年、源頼朝が 浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。 昭和5(1930)年天 然記念物に指定されたが、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で被災、 天然記念物指定は取り消されたものの、未だに焼け焦げが見える根元から、公 孫樹(いちょう)の新樹が青々と茂っている。 戦災をくぐりぬけた「神木」 (お寺にあるが)と言われる。

それにしても、浅草、どこを見ても、自然や人為的な災害の跡があり、そこ から立ち直った歴史があるのだった。 雷門だけでも寛永19(1642)年、明 和4(1767)年、慶應元(1865)年田原町大火と、何度もの火事による焼失、 明治維新の政権交代による変革、廃仏希釈の嵐、関東大震災、東京大空襲、東 日本大震災。 災害からの復興再生、それを為してきた人々の知恵と力を感じ ることが出来た。 浅草は、復興再生のモデル地区なのであった。