富岡製糸場と幕末の輸出品2014/05/01 06:35

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界 文化遺産に登録される見通しになったというので、たくさんの人が富岡製糸場 の見学に訪れているそうだ。 2007(平成19)年10月、福沢諭吉協会の信州 佐久旅行で、富岡製糸場を見学した。 幕末の開港とともに重要な輸出品とな った、生糸の製造近代化の「模範工場」「実習工場」として計画された富岡製糸 場は、明治5年から26年までの官営のあと、三井製糸が明治35年まで、それ から昭和14年まで原製糸、昭和63年の操業停止を経て、平成17年までを片 倉工業が経営していたことを知った。 見学当時の片倉工業の社長は大学の同 期、友達の友達だったので、短信を読んでもらっていたのだった。

 今回の世界遺産のニュースでまっさきに想ったのは、長く社長を務め、退任 直後から病気療養中と聞く彼のことだった。 富岡製糸場が、あの姿でずっと 保存されて来たについては、彼の力も大きかったのではないかと考えたからで ある。 伝統のある豊かな会社だということもあったのだろうが、あの土地の 転用などということをしなかったことについては、それなりの困難もあったに 相違ない。

 そんなことを書くことにしたのは、福沢の「幕末英字新聞譯稿」をパラパラ とやっていたら、『ジャパン・ヘラルド』1865年10月7日(慶應元年8月18 日)、1865年12月23日(慶應2年11月6日)、1866年3月3日(慶應2年 1月17日)に、輸出品の相場が載っていて、当然「絹」がそのメインになって いたからだ。 産地別で、「飯田」上品・品物なし、中・760ドル乃至780ド ル、下・700ドル 乃至780ドルに始まり、「前橋及信州」、「奥州」、「甲州」、 「八王寺」(八王子はこう書いていたのだ)、「越前」の上・中・下の値段が出て いる。 「飯田」の値段でみて、1865年12月と1866年3月になると、中品・ 830ドル乃至860ドル、下品・750ドル乃至800ドルに上がっている。

つぎの輸出品が、「茶」の第一から第四まで、「蝋」、「蜜蝋」、「種子」、「種子 油」、「昆布(刻み)」、「するめ」、「柎子」、「樟脳」、「人参」、「麦粉」、「石炭」、 「煙草」と続く。  幕末には、こういう品々が、日本の輸出品だったことを、 あらためて知る。 「柎子」がわからない。 辞書を見ると、「付子」「附子」 「五倍子」と同じで、「ヌルデの若芽・若葉などに生じた瘤状の虫癭(ヤマイダ レに嬰)(ちゅうえい)。タンニン材として女性が歯を黒く染めることや、薬用・ 染織用・インク製造などに供した」とある。 「人参」は、チョウセンニンジ ンであろう。

2009(平成21)年8月の特別展『福澤諭吉と神奈川』の図録に、明治7(1874) 年2月「大日本各海関輸出入物品一覧表」があって、横浜港は輸出の61.53%、 輸入の81.75%を占め、品目で輸出品では生糸や写真、輸入品では書籍や活字 器械などが横浜港のみで扱われている、と解説があった。 「写真」があった ので、付記しておく。

「絹」「茶」の輸出と東洋英和2014/05/02 06:35

 「絹」や「茶」の輸出と「甲州」つながりで、ひとつ書いておく。 会社を やっている頃、朝が早かったので、わが家はNHKの朝の連続テレビ小説を見 る習慣がない。 それが珍しく、家内が『花子とアン』を見だして、村岡恵理 さんの『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)を買って来た。 それ をパラパラめくっていた。 村岡花子(本名はな)は、明治26(1896)年、 父安中逸平、母てつの長女として山梨県甲府市に生れた。 父の生家は駿府(静 岡)で茶商を営んでいたが、花子が生れた時は、実家を離れ、甲府のてつの実 家で暮していた。 父は熱心なクリスチャンで、花子も2歳の時にカナダ・メ ソジスト派甲府教会牧師で、東洋英和女学校の創設メンバーでもある小林光  泰から幼児洗礼を受ける。 この時、本人は知る由もないが、花子の人生にお けるカナダとの深い縁――『赤毛のアン』翻訳へと続く長い旅路は始まってい た、と孫の村岡恵理さんは書いている。

 幕末の安政6(1859)年に小さな茶商の家に生まれた安中逸平が、どのよう にしてクリスチャンになったのか。 慶応3(1867)年の大政奉還、翌年の「王 政復古の大号令」によって、徳川家は800万石の封土の返上を命じられ、あら ためて70万石の静岡藩となった。 静岡に移住した旧幕臣たちは、お家再興 を目指して、藩の近代化を急ぎ、海外から医学、軍事、語学などの教師を招い た。 招かれた外国人教師は、学問だけでなく、そのバックボーンであるキリ スト教も、この地にもたらした。 明治7(1874)年、医学博士でカナダ・メ ソジスト派の宣教師、D・マクドナルドが来日し、布教の種を蒔いた。 キリ スト教は、幕府の瓦解で信じるものを失い、弱い立場に追いやられた旧幕臣と その子弟たちの心の拠りどころとなった。 静岡病院の顧問を兼任したD・マ クドナルドの献身的な医療活動に心打たれた人や、外国との貿易のために語学 習得を求める茶商人たちが加わって、教会にさまざまな日本人が集りはじめる。  その中から入信者が多く出て、キリスト教は次第に広まっていった。

 甲府の生糸商人の間にも、信仰を持つ者が増えていく。 明治の前半期に、 お茶と生糸が日本の海外輸出品の筆頭になった背景には、商人たちとカナダ人 宣教師との精神的結びつきがあった、と村岡恵理さんは書いている。 甲府も 旧幕領だったため、旧幕臣が多い。 新撰組の生き残りと言われる結城無二三 (むにぞう)も、カナダ・メソジスト派との出会いによって、キリスト教伝道 師となる劇的な転身をしたという。

 このようにして、明治初期からカナダ・メソジスト派教会は、静岡と甲府、 そして首都東京の麻布に布教の拠点を置き、その3か所に静岡英和女学校、山 梨英和女学校、東洋英和女学校が創立されたのである。(東洋英和女学院のホー ムページを見ると、東洋英和女学校の設立は明治17(1884)年。)

 『アンのゆりかご』には、当初カナダ・メソジスト派によって、東洋英和女 学校と共に創立され、その男子部であった東洋英和学校は、明治32(1899) 年「私立学校令」「文部省訓令十二号」の発布によって、公認資格を得られず卒 業後の学歴が就職に影響するため、キリスト教主義を捨てる苦渋の選択をして、 進学校の道を選び現・麻布学園になった、とある。 麻布学園のホームページ には、明治28(1895)年、江原素六が私立麻布尋常中学校を創立して、東洋 英和学校内に校舎を置き、明治33(1900)年麻布中学校と改称、現在地に移 転とある。 江原素六は、幕臣で静岡へ移った後、沼津兵学校の設立に加わり、 自由民権運動にかかわり、キリスト教に入信、明治22(1889)年当時東洋英 和学校の校長、メソジスト教会中央会堂福音士として活躍していた、という。

江原素六と沼津の記念館2014/05/03 06:23

 2009(平成21)年6月、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で、沼津・三島方 面に出かけ、沼津兵学校や江原素六の資料を展示した沼津市明治史料館・江原 素六記念館を見学したことがあった。 江原素六は、福沢より7年後の天保13 年1月29日(1842年3月10日)に御家人の嫡子として新宿の角筈に生れた。  房楊枝作りの手内職をする貧しい家だったが、苦労して剣術、洋学を学び、講 武所の教授方として取り立てられる。 鳥羽・伏見の戦いでは指揮官として戦 い、江戸城開城後も市川・船橋戦争などで新政府軍と戦うも負傷して戦線を離 脱し、身を隠した。 徳川家の静岡移封後に偽名を名乗り沼津に移り住んだ。  沢山の幕臣を静岡だけでは収容できず、沼津にも多くの人が移住した。 後に 恩赦によって、罪を許される。

 静岡藩は、お家再興を目指して近代化を急ぎ、静岡にも沼津にも程度の高い 近代的な洋学校を開いて、子弟の教育に力を入れた。 沼津には、西周(あま ね)を校長とする「沼津兵学校」が設けられ、その運営に主として当ったのが 静岡藩小参事の江原素六だった。 杉亨二(こうじ)、赤松大三郎らが教授で、 兵学校といっても、英語・フランス語・数学・物理学・地理歴史などが、外国 語の教科書を使って教えられた。 江原は、政府の命令で沼津兵学校が廃止さ れた後も、集成舎(現在の沼津市立第一小学校)、沼津中学校、駿東高等女学校 (現在の沼津西高校)などをつくり、沼津の教育に尽力した。

 江原素六はまた、殖産興業の分野でも、旧幕臣の授産事業として、愛鷹山官 林の払下げ運動や茶のアメリカへの輸出会社の設立などを行った。 愛鷹山で は、西洋式の牧畜を始め、牛乳やバター、チーズ、羊毛などを生産した。

 駿東郡長(現在の沼津市、御殿場市、裾野市を含む地域)をつとめたり、自 由民権運動に参加し自由党の板垣退助などと共に日本各地を遊説し、第1回衆 議院議員選挙では静岡第7区から自由倶楽部公認で出馬し当選する。 その後 も長く議員をつとめ、明治45(1912)年には貴族院議員に替り、大正11(1922) 年に80歳で亡くなるまで議員の職にあった。

 明治10(1877)年に、カナダ・メソジスト派宣教師ジョージ・ミーチャム から洗礼を受けて、クリスチャンとなった。 沼津教会を設立したり、明治15 年から数年間、キリスト教の伝道師として現在の富士市、富士宮市あたりを布 教してまわったこともあった。 明治22(1889)年東洋英和学校幹事になり、 後に校長となって、それが明治28(1895)年の私立麻布尋常中学校の創立に つながる。 東京YMCA第5代理事長などもつとめた。

 この福澤協会の旅行でご一緒した飯田鼎先生の晩年、突然電話があって「麻 布学園の創立者の名前は?」と尋ねられたことを思い出した。

桂三木男の「猿後家」2014/05/04 06:42

 4月30日は、第550回の落語研究会だった。 新年度の初回で心なしか若 いファンが増えたように見え、こちらが年取ったのを感ずる。 47年目に入り、 550回という切りの良い数字に、感慨なきしもあらず、あと何回を、重ねるこ とができるか。

「猿後家」      桂 三木男

「加賀の千代」    春風亭 一之輔

「庚申待ち」     五街道 雲助

       仲入

「かぼちゃ屋」    瀧川 鯉昇

「付き馬」      古今亭 志ん輔

 桂三木男の母小林茂子さんの父、つまり祖父は三代目桂三木助、母の弟、つ まり叔父は四代目桂三木助、まあ花緑と同じ立場だ。 しかし出るなり、馬生 の三番弟子の三木男です、と。 祖父が、祖父がと言う花緑とは違う。 祖母 は50数年、後家だと、「猿後家」に入ったが…。

 三木男、藤色の着物と羽織、髪はごってり。 大店の後家さんがやり手なの だが、猿に似ていて、店の者も、出入りの者も、「さる」という言葉が使えない。  源さんが顔を出すと、番頭はもう三日も怒り続けているという。 植木屋が庭 の手入れをしていて、泉水の脇に植える木を聞かれ、うっかり「さるすべりが いいでしょう」とやって、「この恩知らず」とキセルの雁首で額を割られた。 植 木屋は、こちらから出入り止めだ、柿の木の上で、お握りでも食っていろ、と 啖呵を切った。 それで、怒りが三日続いている。

 源公、得意のおしゃべりで、留守ですかと声をかけ、おかみさんでしたか、 人違いかと思った、京都からおいでになるお千代さんかと。 お千代は19だ よ、京美人だし。 おかみさんは、お会いするたびに若くなる、まだ化粧前、 素顔、嘘でしょう、本当に。 それでお化粧すれば、後光が差す。 お清、鰻 をそういって、お酒もつけとくれ。 この五、六日、女房の親が出て来まして ね、東京見物、皇居遥拝、日比谷、新橋で天丼の特上を食べさせ、泉岳寺で四 十七士の墓、靖国神社、上野の西郷さんの所で写真を撮って、浅草の観音様、 仲見世を右左、雷門の右に黒山の人だかり。 何かと思って、人をかき分けて 前へ出ると、近頃珍しい「猿回し」。 「この恩知らず」、お清、鰻捨てちまい な、煮え湯を沸かして、塩撒いておくれ。

 番頭の話では、仕立屋の泰平が来て、娘が踊りを習っていて、今度「靫(う つぼ)」で猿をやると言って、しくじった。 泰平よく考えて、あくる日、女房 娘と三人で来て、江戸を立って旅に出る、と。 娘が絵草子屋の前で、お店の おばちゃんにそっくりだから、旅に持っていきたいと言った。 おかみさんに、 この錦絵に魂を入れてもらいたい、と目の覚めるような美人の絵を出した。 そ れでお酒や料理が出て、びっくりするような小遣いをもらった。 源公は、番 頭にこの世で一番きれいな人はと聞き、小野小町と覚える。 口(おしゃべり) しかないのでと、ふたたび挑戦。

 おかみさん。 源公、まだいたのか、お清、煮え湯はまだかい。 何をそん なにお怒りか、わからない。 雷門で見たんだろ。 ええ近頃珍しい「皿回し」。  お清、鰻、まだかい。 女房の親に、お店のおかみさんはどんな人と聞かれて、 小野小町のような方かな、と。 またァ、私は大げさなのは嫌いなんだよ、お 清、銀行行って、下ろして来て。 源さん、えらいね、よく小野小町を知って いた。 いいえ、ほんの猿知恵でございます。

 三木男、テンポもよくて、開口一番にしては出色の出来。 今後が楽しみだ。

一之輔の「加賀の千代」2014/05/05 07:18

 一之輔は、もう4月30日、そろそろ暮の仕度をしないと、と始める。 落 語研究会は独特の空気がある、ピリッとしている、楽屋もそう…。 出して頂 けるのは有難い、噺家冥利に尽きる。 プロデューサーにネタの相談をされて、 「加賀の千代」をやることになった。 でも、十年位出てない、面白くないか らでしょうね、と言われた。 白山市、松任(まっとう)に行った、加賀の千 代が生れた所だ。 係の人が、「加賀の千代」はできますか? カチンと来た。  たいそう面白い噺だそうで、というけれど、お願いしますというので、演った。  終わったら係の人は、本当はもっと面白い噺なんだけれど、次に来る人に期待 しましょう、と。 会館に火をつけようかと思った。

 ご夫婦は円満がいい。 ウチはごく円満で、子が三人いる、仲の良い証拠で しょう。 大分へ行くと言ったら、また地方、と。 いいな、湯布院。 市内 の公民館だよ。 子供は、パパまた遊びに行くの? そうじゃない、落語だ。  遊びじゃないか。

 借金、どうすんの、井上の隠居に借りといで、あんた、可愛がられているか ら。 犬、猫じゃないよ、膝に乗ったり、フトコロに入れてもらったことはな い。 朝顔だって、可愛がった人がいるんだ、おっ母さんに聞いた話だけれど ね、加賀に千代って人がいて、殿様に呼ばれた、ご前に伺候せよってね。 留 さんとこで、四光が出来たことがある、松、桜、月、桐の札が揃って、あと雨 が降れば五光だった。 御簾が上ると、梅鉢の紋だ。 殿様に所望され、即興 で<見上げればまがうことなき梅の花>と詠んだ。 <朝顔に釣瓶取られて貰 い水>って、朝顔を可愛がる句がある。 お前さんだって、隠居さんには朝顔 みたいなものだよ。 20円借りといで。 いつもは、3円か4円なのに。 本 当は8円5、60銭要る。 そう言えばいいじゃないか。 そこが素人、上を見 て20円と言えばね、半分貸してくれても10円になるだろ、金借りるコツだよ。  一生、ついて行きます。 表の伊勢屋の饅頭を、持っていきな。 あんな硬い まずいのを持って行くのか、あれは罰ゲームで使うやつだろ。 義理を立てる んだから、いいんだよ。

 着いちゃった。 ご隠居さんはいますか、お清さんだ。 甚兵衛さんかい、 私は甚兵衛さんが好きなんだ。 女房があんたは隠居さんに、犬猫みたいに可 愛がられている、金借りてこいっていうから、来ました。 可愛いね、絶好調 だね、膝にのるか。 仕事は忙しいか。 ………。 なまけているか。 ハイ。  饅頭を持ってきました、こんなまずいのは隠居さんは食わないでしょう。 い らないよ。 やっぱりね、女房が義理を立てるんだから持って行きなって、目 を三角にしていうから。 意地でも、頂くよ。

 いくら要るんだ。 隠居さん、驚かないかな。 思い切って言おう、20円貸 して下さい。 20円でいいの、持って行きな。 驚いてくれなきゃあ。 初め からやるか。

 こんにちは、ご隠居さんは、いますか。 ヒュル、ヒュル、ヒュルー(テー プ早回しの音)。 20円貸して下さい。 120円かい、220円、320円、520 円、1020円…、お清、本家に電話してくれ。 (甚兵衛はふるえて)本当は8 円5、60銭要る。 隠居さんは素人、8円5、60銭要るところ、10円というと、 たびたびだから半分の5円持ってけとなる、「帯に長し襷に短し」だ。 それ を言うなら「帯に短し襷に長し」だろう。 聞いてました? そんな訳ないだ ろ。 女房は、上を見ろ、掛け値をしろって、言うのよ、よく覚えておきなさ い。 10円でいいのか、はい10円。 私は朝顔ですか?<朝顔に釣瓶取られ て貰い水>の。 ちょいと、待ちなさい。 それは加賀の千代だろ? いいえ、 カカの知恵です。

 一之輔、自ら面白くないと始めた「加賀の千代」を、見事に面白い噺にした のだった。 かなりの力をつけたと見た。 拍手、拍手。