『播磨灘物語』と大河ドラマ2014/05/17 06:46

司馬遼太郎さんの『播磨灘物語』で読んだ余話を、拾っておく。 大河ドラマ『軍師官兵衛』との相違点だが、まずは官兵衛がクリスチャンに なった時期である。 『播磨灘物語』では、ごく若い時期に、堺や京都へ行き、 京都で司祭ビレラから洗礼を受け、シメオンとなった。 だから、官兵衛が荒 木村重に幽閉された有岡城(伊丹城)の牢の中から、藤の花房が芽を出し咲い ていくのを見て、天(でうす)は自分を捨てていない、自分は生きるだろうと 悟るのだった。 大河ドラマのホームページの「戦国略年表」で、黒田官兵衛 は「中国大返し」「山崎の戦い」の翌年、天正11(1583)年38歳の頃、「キリ スト教に入信し洗礼を受ける」となっている。

もう一つは、妻である志方・櫛橋氏の女の名前である。 大河ドラマで中谷 美紀が好演しているのは「光(てる)」。 『播磨灘物語』では、「おゆう」で、 官兵衛より背が高く、鴨居で頭を打ちそうな自分の背をつねに苦にしていた。  「おゆう」は、婚礼の夜、官兵衛が漏らした言葉を忘れない。 床入りして明 け方近くになったころ、官兵衛は闇のなかでそう呟いたというのである。 「た しかに、女だった」。 若く、美しかった、とある。 官兵衛と妻の間には、の ちに黒田長政となる正寿丸ひとりしか子がなかった。 大河ドラマでも、側室 を持つように勧められる場面があり、官兵衛は承知しない。 『播磨灘物語』 は、それを官兵衛がキリシタンであるからもあった、としている。 時期の問 題があって、大河ドラマでは、そうは言えない。

『播磨灘物語』「夏から秋へ」、官兵衛が伊丹の牢内で苦しんでいた時期、信 長は播州三木、摂津伊丹、摂津大坂(本願寺)、丹波の四方面の敵と対峙し、膠 着状態にあった。 どこも毛利の大軍が出て来るのを期待して、耐え忍んでい る。 秀吉は、もっとも弱っている一つを叩けば、他の三方面の気力を殺ぐこ とができると考え、信長に献策した。 まず丹波の波多野氏である。 丹波は 明智光秀が担当していて、多年その攻略に手を焼いていた。 丹波の国主、波 多野氏は、室町末期の下剋上の機運に乗じて一国支配を完成した戦国大名だけ に、新興の気分があり、自然、一族郎党の結束が強い。 「丹波国は無類の堅 固の国にて」、攻めるには困難な土地だと、丹波の地元の旧記にも、あるという。  ここまで長々書いたのは、その旧記の名が最近よく問題にされる人物の名前だ ったからである。 関係は知らない。 『籾井(もみい)家日記』。 籾井氏は 福住城にこもり、光秀が大きな犠牲を払ってようやく抜いたという。