「絹」「茶」の輸出と東洋英和2014/05/02 06:35

 「絹」や「茶」の輸出と「甲州」つながりで、ひとつ書いておく。 会社を やっている頃、朝が早かったので、わが家はNHKの朝の連続テレビ小説を見 る習慣がない。 それが珍しく、家内が『花子とアン』を見だして、村岡恵理 さんの『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)を買って来た。 それ をパラパラめくっていた。 村岡花子(本名はな)は、明治26(1896)年、 父安中逸平、母てつの長女として山梨県甲府市に生れた。 父の生家は駿府(静 岡)で茶商を営んでいたが、花子が生れた時は、実家を離れ、甲府のてつの実 家で暮していた。 父は熱心なクリスチャンで、花子も2歳の時にカナダ・メ ソジスト派甲府教会牧師で、東洋英和女学校の創設メンバーでもある小林光  泰から幼児洗礼を受ける。 この時、本人は知る由もないが、花子の人生にお けるカナダとの深い縁――『赤毛のアン』翻訳へと続く長い旅路は始まってい た、と孫の村岡恵理さんは書いている。

 幕末の安政6(1859)年に小さな茶商の家に生まれた安中逸平が、どのよう にしてクリスチャンになったのか。 慶応3(1867)年の大政奉還、翌年の「王 政復古の大号令」によって、徳川家は800万石の封土の返上を命じられ、あら ためて70万石の静岡藩となった。 静岡に移住した旧幕臣たちは、お家再興 を目指して、藩の近代化を急ぎ、海外から医学、軍事、語学などの教師を招い た。 招かれた外国人教師は、学問だけでなく、そのバックボーンであるキリ スト教も、この地にもたらした。 明治7(1874)年、医学博士でカナダ・メ ソジスト派の宣教師、D・マクドナルドが来日し、布教の種を蒔いた。 キリ スト教は、幕府の瓦解で信じるものを失い、弱い立場に追いやられた旧幕臣と その子弟たちの心の拠りどころとなった。 静岡病院の顧問を兼任したD・マ クドナルドの献身的な医療活動に心打たれた人や、外国との貿易のために語学 習得を求める茶商人たちが加わって、教会にさまざまな日本人が集りはじめる。  その中から入信者が多く出て、キリスト教は次第に広まっていった。

 甲府の生糸商人の間にも、信仰を持つ者が増えていく。 明治の前半期に、 お茶と生糸が日本の海外輸出品の筆頭になった背景には、商人たちとカナダ人 宣教師との精神的結びつきがあった、と村岡恵理さんは書いている。 甲府も 旧幕領だったため、旧幕臣が多い。 新撰組の生き残りと言われる結城無二三 (むにぞう)も、カナダ・メソジスト派との出会いによって、キリスト教伝道 師となる劇的な転身をしたという。

 このようにして、明治初期からカナダ・メソジスト派教会は、静岡と甲府、 そして首都東京の麻布に布教の拠点を置き、その3か所に静岡英和女学校、山 梨英和女学校、東洋英和女学校が創立されたのである。(東洋英和女学院のホー ムページを見ると、東洋英和女学校の設立は明治17(1884)年。)

 『アンのゆりかご』には、当初カナダ・メソジスト派によって、東洋英和女 学校と共に創立され、その男子部であった東洋英和学校は、明治32(1899) 年「私立学校令」「文部省訓令十二号」の発布によって、公認資格を得られず卒 業後の学歴が就職に影響するため、キリスト教主義を捨てる苦渋の選択をして、 進学校の道を選び現・麻布学園になった、とある。 麻布学園のホームページ には、明治28(1895)年、江原素六が私立麻布尋常中学校を創立して、東洋 英和学校内に校舎を置き、明治33(1900)年麻布中学校と改称、現在地に移 転とある。 江原素六は、幕臣で静岡へ移った後、沼津兵学校の設立に加わり、 自由民権運動にかかわり、キリスト教に入信、明治22(1889)年当時東洋英 和学校の校長、メソジスト教会中央会堂福音士として活躍していた、という。