近代出版の先駆け、福沢諭吉2014/05/29 06:31

 24日は福澤諭吉協会の総会が交詢社であり、竹中英俊さんの「福澤諭吉と出 版業」という記念講演を聴いた。 竹中さんは東京大学出版会常任顧問、1974 年に早稲田大学を出て東京大学出版会に入り、直接企画・編集に関わって刊行 した点数は403点、日本で最も数多くの学術書の誕生に携わったとして「ホモ・ エーデンス(編集する人)」を自称していらっしゃるという。 21世紀に入る 頃から編集の、やがて出版会の責任者になったが、ちょうど大学と大学出版は 大きな曲がり角にあたっていて、大学と大学出版はどうなるのか、つねに考え る立場にあった。 その時の参照基準が、明治5年(「慶応敗戦革命5年にし て」と、昭和敗戦革命5年にして東大出版会を創った南原繁と対比)に慶應義 塾出板局を創った福沢諭吉の事績で、日本における大学出版の歴史はそのまま 近代出版の歴史でもあった。 それ以来、当時出版された本を蒐集してきた。  紙や印刷や造本を、実際に手で触ると、実感することができる、読者に何を伝 えようとしたのかを…。

 福沢諭吉の衝撃は、「思考と文と出版の戦略家」ということだ。 まず版権思 想の紹介と実践をした。 『西洋事情』外編で「蔵版の免許」と、コピーライ トの考え方を初めて紹介した。 政府・地方政府に対して「重版(今日言う海 賊版)の防止・禁止」を求めた。 福沢の「読書渡世の一小民」(明治改元の慶 応4年6月7日付、適塾以来の友人山口良蔵宛書簡)、「読書」は知識人として の読書で、自立宣言、独立宣言、たつき(たずき・方便…生活の手段)の道と して、出版という新しい道を拓こうとする覚悟を示した。

 福沢は近代出版システムの創出に、大きく貢献した。 近代国家は教育国家 であり、教育国家の重要なパートが、学校であり、出版・新聞である。 近代 出版が成立するには、書籍の需要が十分にあること(層としての読者の成立)、 著作権が保障されること(権利としてのコピーライトの成立)、継続的な発行者 が存在すること(組織としての出版社の成立)が必要。 もう一つ、流通が大 事で、東海道線の開通が大きかった。 近代出版が成立したのは、明治10年 代から20年代であるが、その先駆的存在が慶應義塾出版局だ。 福沢は、著 者を従とした本屋仲間システム(版元=取次・小売書店=蔵版所有者)を変革 した。

 さらには、ハイテクとしての印刷・製本技術を導入した。 明治5年2月の 『学問のすすめ』(「全」・後に初編と命名)は、装丁、印刷、製本のそれぞれで きわめて先駆的な本だった。 洋装本23ページ、洋紙使用、四六判(洋紙の 判型)、活版(慶應義塾の金属彫刻活字(楷書・ひらがな)で印刷。木版でない)、 両面刷り(和装本は袋綴じ)。 この最初の本は、現在なかなか手に入らない。  23ページと薄い本だが、世の中を変えるのは、厚さではなく、内容である。 当 時の活版は紙型を取る技術がなく、増刷が不可能だった。 実験としての活版 で、ベストセラーになると考えていなかったのではないか。 明治5年6月「初 編」として再刻したのは、2月初版の覆刻製版(初版本を板の上に貼りつけて 刻む)で、木版で発行された。 明治6年3月「初編」三刻は、漢字カタカナ 交り文で、新たに彫った木版。 明治5年の学制で、小学校がカタカナから教 えたためか、木版にはカタカナが彫りやすかったためか、職人を大勢抱えてい たためか、わからない。