江原素六と沼津の記念館2014/05/03 06:23

 2009(平成21)年6月、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で、沼津・三島方 面に出かけ、沼津兵学校や江原素六の資料を展示した沼津市明治史料館・江原 素六記念館を見学したことがあった。 江原素六は、福沢より7年後の天保13 年1月29日(1842年3月10日)に御家人の嫡子として新宿の角筈に生れた。  房楊枝作りの手内職をする貧しい家だったが、苦労して剣術、洋学を学び、講 武所の教授方として取り立てられる。 鳥羽・伏見の戦いでは指揮官として戦 い、江戸城開城後も市川・船橋戦争などで新政府軍と戦うも負傷して戦線を離 脱し、身を隠した。 徳川家の静岡移封後に偽名を名乗り沼津に移り住んだ。  沢山の幕臣を静岡だけでは収容できず、沼津にも多くの人が移住した。 後に 恩赦によって、罪を許される。

 静岡藩は、お家再興を目指して近代化を急ぎ、静岡にも沼津にも程度の高い 近代的な洋学校を開いて、子弟の教育に力を入れた。 沼津には、西周(あま ね)を校長とする「沼津兵学校」が設けられ、その運営に主として当ったのが 静岡藩小参事の江原素六だった。 杉亨二(こうじ)、赤松大三郎らが教授で、 兵学校といっても、英語・フランス語・数学・物理学・地理歴史などが、外国 語の教科書を使って教えられた。 江原は、政府の命令で沼津兵学校が廃止さ れた後も、集成舎(現在の沼津市立第一小学校)、沼津中学校、駿東高等女学校 (現在の沼津西高校)などをつくり、沼津の教育に尽力した。

 江原素六はまた、殖産興業の分野でも、旧幕臣の授産事業として、愛鷹山官 林の払下げ運動や茶のアメリカへの輸出会社の設立などを行った。 愛鷹山で は、西洋式の牧畜を始め、牛乳やバター、チーズ、羊毛などを生産した。

 駿東郡長(現在の沼津市、御殿場市、裾野市を含む地域)をつとめたり、自 由民権運動に参加し自由党の板垣退助などと共に日本各地を遊説し、第1回衆 議院議員選挙では静岡第7区から自由倶楽部公認で出馬し当選する。 その後 も長く議員をつとめ、明治45(1912)年には貴族院議員に替り、大正11(1922) 年に80歳で亡くなるまで議員の職にあった。

 明治10(1877)年に、カナダ・メソジスト派宣教師ジョージ・ミーチャム から洗礼を受けて、クリスチャンとなった。 沼津教会を設立したり、明治15 年から数年間、キリスト教の伝道師として現在の富士市、富士宮市あたりを布 教してまわったこともあった。 明治22(1889)年東洋英和学校幹事になり、 後に校長となって、それが明治28(1895)年の私立麻布尋常中学校の創立に つながる。 東京YMCA第5代理事長などもつとめた。

 この福澤協会の旅行でご一緒した飯田鼎先生の晩年、突然電話があって「麻 布学園の創立者の名前は?」と尋ねられたことを思い出した。