『福澤諭吉事典』の『丁丑公論』2016/03/02 06:32

 『福澤諭吉事典』では、小川原正道さんが〈生涯〉「西南戦争」、〈人びと〉「西 郷隆盛」、そして〈著作〉『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』の項目を解説して いる。 〈著作〉の『丁丑公論』についての部分で、大事だと思われるところ を引いておく。

 「「丁丑公論」は、明治10(1877)年の西南戦争終結後すぐに執筆されたも ので、かつて維新の元勲として賞賛していた西郷を賊として扱う新聞雑誌を不 満とし、西郷が示した「抵抗の精神」を専制政治に抵抗する精神として、また 西郷の人格を士族の気風や「文明の精神」を宿したものとして、高く評価した。」

 「福沢諭吉は、鹿児島士族の割拠を許して貧窮に追い込み、みずからは奢侈 を極めてきた明治政府にこそ反乱勃発の責任があると指弾する。一方、西郷も 地方自治に力を入れて言論や学問、産業によって抵抗すべきであったと指摘し た。ここでいう抵抗とは権力の偏重に修正をうながすものであり、福沢が好ん で使った「独立」「私立」と同義であったといえる。」

 「「丁丑公論」は執筆後長く公にされなかったが、西南戦争から20年余りを 経て時事新報記者の石河幹明が福沢の自宅で稿本を発見し、福沢の許可を得て 明治34年2月1日から10日まで8回にわたって『時事新報』に掲載した。」  連載中の2月3日に、福沢が亡くなった。 「丁丑公論」は「瘠我慢の説」と 合本して、34年5月に刊行された。