熊谷守一、一時、慶應義塾に学ぶ2018/05/30 06:42

 25日の「等々力短信」第1107号「熊谷守一と信時潔」に、地方の素封家が 東京に家を持ち、子供達を学校に通わせているケースがあるが、「熊谷守一は、 どうだったろう」と書いた。 熊谷守一の父・孫六郎は製糸工場を営み、後に 初代岐阜市長となる。 熊谷の兄二人と熊谷自身も一時、慶應義塾で学んでい たという。 その答を求めて、福井淳子さんの『いのちへのまなざし―熊谷守 一評伝』(求龍堂)を読み始めた。

 熊谷守一は、明治30(1897)年3月、岐阜尋常中学2年の過程を終えると、 10歳年長の長兄・銕太郎、7歳年長の次兄・鋭雄がそうであったように、東京 の学校に通うことになる。 長兄・銕太郎は、明治23(1890)年に慶應義塾 正科を卒業し、この頃には岐阜県恵那郡付知(つけち)村(現・中津川市付知 町)に戻って、地主の仕事、製材の仕事など、熊谷家の付知での仕事を担って いた。 次兄・鋭雄は、やはり慶應で学び、この頃は父・孫六郎が借りている 芝公園の家に住み、父が出資していた芝三田の東京硝子株式会社のガラス工場 の仕事を手伝っていた。 この家は、現在東京タワーの立つあたり、道を隔て て「紅葉館」という結婚披露宴も行われるような大きな料亭があった。 「紅 葉館」といえば、私などは、その前年の明治29(1896)年11月1日に、ここ で開かれた慶應義塾故老生懐旧会で、福沢諭吉が行った演説の最後に近い一節 が「慶應義塾の目的」という文書になっていることを思い出す。

 熊谷守一は上京して、その次兄・鋭雄の芝公園の家に一緒に住み、同じ芝公 園の中にある正則尋常中学(現在の正則高等学校)に転入する。 ところがそ こで英語が劣っていることに気付き、築地にある英国人ジェイムズ・サマーズ の英語学校に通い、英語の勉強をしばらく続けるが、どうしても絵をやりたい という気持が日を追って強くなる。 上京してきた父に、思い切って「絵をや りたい、絵の学校へ行きたい」と相談する。 当然、絵では自活できない、と 父は絶対反対、守一は何度も説得を重ねる。 父はつい「もし慶應に一学期だ け通ったら、お前の好きなことをしてもいい」と言ってしまう。 兄ふたりが 慶應に通ったので、守一も慶應で学ぶうち、考えも変わるだろう、と思ったよ うだ。 守一は、父が「男が一度口にしたことは必ず守る」ことを身上とする ことを知っていた。 「しめた」と思い、「それぢや行きます」とすぐに寄宿舎 に入って、慶應で学び始める。 明治30(1897)年10月、慶應義塾普通科2 年3学期(9月始まり)への編入学だ。 守一は、和服に前掛けを締めて学内 を急ぎ足で行く福沢諭吉を何度か見かけたそうだ。 12月に3学期が終了、64 人のクラスで、守一は途中入学ながら、いい方の成績を残した。

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