松永安左エ門の記念館を見学2019/06/16 07:54

松永記念館の絵葉書より

 箱根一泊旅行の二日目、それぞれが好みの場所へ出かける中、加藤隆康さん 夫妻が小田原の松永安左エ門の記念館へ行くというので、一諸に車に乗せて行 ってもらった。 以前から、一度は行ってみたいと思っていた場所だったから だ。

 松永記念館は小田原市板橋941番地1にある。 松永安左エ門が晩年、72 歳の昭和21(1946)年から97歳で亡くなる昭和46(1972)年まで25年間住 んだところである。 埼玉県柳瀬(やなせ・現所沢市)の家が寒いというので、 温暖なこの地に、当時は15坪という制限があったので、当初はその規模の住 居として建設された。 まず、その老欅荘(ろうきょそう)という建物を見よ うと、門から左手の睡蓮の池を巡って、樹齢400年の欅(けやき)と重さ10 トンとかいう黒部の大石の横を登って行くと、庭の草むしりをしていた係の人 が、初めてですか、ご案内しますか、と聞いてくれる。 小田原市の職員の女 性で、実に親切丁寧に老欅荘内を案内してくれた。

 老欅荘は、昭和54(1979)年に小田原市に寄付され、平成12(2000)年に 国登録有形文化財となり、保存整備工事も施された。 玄関を入ると三畳の寄 付があり、左に十畳の和室、その奥に床の間のある十畳の座敷に窓際の縁座敷 の付いた広間、さらに六畳の和室に連なった四畳半の茶室がある。 どの部屋 も、茶席の規模に応じて、いくつかの茶室として使えるような、近代数寄屋建 築になっている。 松永安左エ門は、あちこちの部屋に寝ていたそうだ。 三 畳大の床の間は、長身の松永が死んだ時のために、大きく作られていたという。  部屋と部屋の間に金庫があり、隣に奥さんの居室があった。

 大きなガラス戸を通して、庭の若楓が美しく、独特のカーブのある築地塀の かなたには、相模湾の海を望み(この日は見えなかったが)、隣の寺には桜の大 樹もある。 四季折々の茶会が催されたのであろう。 大ガラス戸、網代天井、 特に櫛型の桟などに、意匠を凝らしているのは、松永の注文に柳瀬山荘時代か らの出入りの職人が応えたものだったそうで、松永の絵入りの手紙が記念館本 館の方に、自筆の書や使用の杖などと共に展示されていた。

 耳庵と号した松永安左エ門は、ここで多くの茶会を催し、当時の有名な茶人、 政治家、学者、建築家、画家などを招いた。 松永がここに住居兼茶室を構え たのは、松永を茶の道に引き込んだ益田孝(鈍翁)が明治39(1906)年にか ら東海道旧道沿いの南斜面丘陵に掃雲台の建築を始め、大正3(1914)年を晩 年をここで過ごした影響だろう。 掃雲台は2万数千坪ともいわれ、本宅、茶 室、農園などがあったが、現在は分譲地と化して当時の面影はない。 松永記 念館の庭園には、掃雲台にあった益田孝旧蔵の蝸殻庵の炉、本館玄関の沓脱ぎ 石、本館の三重塔(江戸、一部鎌倉時代)、春雨庵の九重塔(江戸時代)、不動 滝の下り龍などの石造物が移築されていて、見ることができる。