「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」(4)〔昔、書いた福沢114-4〕2019/09/22 07:43

               南方熊楠

 熊野のカラスがカァと鳴いて、10月23日(火)は一転、快晴になった。 白 浜の陽光がまぶしい。 宿泊したコガノイベイホテルの中庭には、ブーゲンビ リアやストレリチア(極楽鳥花)が咲いていて、ここの温暖な気候を如実に物 語る。 田辺市の一般には公開していない南方熊楠旧邸へ出発。 倉持さんと 同期の学徒出陣組で、田辺で学校の先生や図書館長をなさり、南方熊楠邸保存 顕彰会に関係しておられる杉中浩一郎氏、田辺三田会の榎本三郎氏、廣本喜亮 氏、田辺市教育委員会の松場聡氏らの暖かい出迎えを受ける。 杉中氏から旧 邸や熊楠の説明を聴く。 庭には熊楠ゆかりの楠、粘菌を発見した柿、普及を 計った安藤みかんの木などがあり、特別に書庫も開けて頂いて、膨大な資料が 整理されている様子も拝見した。 蚊取り線香を焚いて下さったのに、蚊には ぼんやりした人物が判るらしく、手の甲を刺される。 松江のラフカディオ・ ハーン旧居を詠んだ高浜虚子の句をそっくり頂戴する。 この「もす」は、モ スキートにかかっているのではないかと、にらんでいる。

  くはれもす熊楠旧居の秋の蚊に

 南方熊楠記念館へ向うバスの中でも、杉中氏の熊楠と慶應義塾の関係の話を 聞く。 熊楠は福沢を銀座通りで見かけたことがあるという程度だったが、「福 沢先生」と書いているそうだ。 熊楠が生涯で先生と呼んだのは、和歌山中学 で習った異色の生物学者で軍艦マーチの作詞者鳥山啓(ひらく)ただ一人だっ たから、福沢に相当の敬意を持っていたのだろうという。 記念館は360度の 眺望を誇る臨海の丘の上にある。 南方熊楠(1867~1941)は、世界的な民俗 学者・博物学者でありながら、在野の人。 大英博物館東洋調査部員。 帰国 後、熊野に3年いて、田辺に定住した。 粘菌(ねんきん)を研究し、18か国 語に通じ、滞英中から学術誌『ネイチャー』等にしばしば寄稿していた。 一 生に書いた手紙は何万通になるのか分からないという。 筆まめは『書簡集』 全九巻が刊行中の福沢に通じるものがある。 杉中氏が熊楠と関係のあった塾 員として挙げたのは、ロンドンで世話になった横浜正金銀行支店長中井芳楠、 中井宅で会い後に生涯の友となる土宜(どき)法龍(高野山管長)、旧藩主徳川 頼倫(よりみち)のロンドン旅行に随行した鎌田栄吉の三人だった。

 よく晴れた白浜の三段壁や千畳敷で雄大な海景を堪能し、円月島の落日も見 た。

  秋の涛地球は丸き千畳敷

 「各自でご夕食」の予定が、白浜空港近くの白浜エクシブのレストランで田 辺三田会の「ご接待」に与る。 一同恐縮、大満足、JAS 55分間の飛行で無 事羽田に帰着した。

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