「三種の神器」と「万世一系の皇統」2020/05/08 07:11

 宮中祭祀を重視した昭和天皇の姿を描いた原武史さんの『昭和天皇』(岩波新 書・2008年)の第1章は、「「万世一系」の自覚」である。 昭和天皇は、裕仁 皇太子として成人式を終えた直後から明治天皇祭に出席して以降、祝祭日のた びに宮中三殿に通い、祭祀に出席することが多くなる。 当時の皇太子が学ん でいた東宮御学問所(このたび上皇上皇后ご夫妻が移られた高輪皇族邸が東宮 御所で、そこに設けられた)での教育、倫理を担当した杉浦重剛(しげたけ) が大きな影響を与えた、と言われる。 杉浦は講義の方針として、第一に「三 種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと」を挙げ、1914(大正3)年6月22 日に始まった講義でも「三種の神器」をまず取り上げた(『杉浦重剛全集』第四 巻)。

 1910(明治43)年の国定教科書『尋常小学日本歴史』の教師用教科書発行 をきっかけに、いわゆる南北朝正閏論争が起こった。 南北朝時代については 南北朝を対等に扱い、両朝のうちどちらが正統かは論ずべきでないとする執筆 者の喜田貞吉に対して、1911年、南朝正統論者から非難の声が上がり、桂太郎 内閣が喜田を休職処分にして南朝正統説の採用を閣議決定するとともに、南朝 を正統とする勅裁まで下された。 これにより南北朝時代は「吉野朝時代」と 改められ、北朝の天皇の存在はいっさい認められなくなった。 裕仁皇太子の 東宮御学問所より前、学習院初等科時代のことである。

 しかし、天皇家は南朝ではなく、北朝の血統を継いでいたから、血統に代わ る正統性の根拠を見出さなければならなくなった。 そこで浮上してきたのが、 1392年の南北朝統一の際、南朝から北朝に譲り渡されたとされる「三種の神器」 であった。 南朝正統論が確立した1911(明治44)年以降、「三種の神器」は 「万世一系の皇統」を担保する神聖なものとなった。 明治天皇はもちろん、 大正天皇もおそらくなかった意識を、昭和天皇は皇太子時代から、決して見て はならない神器に抱くようになる、と原武史さんは言う。

 「三種の神器」が神聖なものとなったことで、その一つである八咫鏡の分身 が安置されている賢所、あるいは宮中三殿全体は、八咫鏡の本体が安置された 伊勢神宮や、草薙剣の本体が置かれた熱田神宮同様に「聖なる空間」となった。  そこで行われる宮中祭祀は、もはや「創られた伝統」ではなくなるのである、 と原武史さんは指摘している。