三島由紀夫の「天皇論の概略」2020/05/22 07:03

 実は、最初(15日)に書いた『波』5月号の対談「皇后陛下が立ち上がる時」 の冒頭で、島田雅彦さんが『スノードロップ』は、2000年に三島由紀夫の『豊 饒の海』を意識して書いた『無限カノン』三部作の続編だということを語り、 余談として、こんなことを言っていた。 「第一部『春の雪』は発表当初から モデルが皇族だと分かる小説で意図的な「不敬文学」と捉える読み方がありま した。何しろ、大蔵官僚だった三島と正田美智子さんが見合いをしたという噂 があるくらいですから、リアルな設定でした。美智子さんはたくさんお見合い をしていて、三島もその中のひとりだったというんです。」

 原武史さんの『昭和天皇』第六章「宮中の闇」に、三島由紀夫が宮中三殿を 見学した話が出てくる。 1966(昭和41)年1月8日、三島由紀夫は小説『豊 饒の海』の取材のため乾門から車で入り、神に仕える巫女である内掌典に会っ た。 初めて目にした宮中三殿を、「奥の向うを向いて、三つの神殿 賢所と降 霊殿と神殿あり。神嘉殿あり。向うは白砂。ここで四方拝行はれる。(中略)賢 所ハ神座へ行くまで 扉なし、スダレのみ。御神体迄扉なし。観音扉の戸もひ るはあける。生きてる如く内掌典は化(したが)ふ。」(「未発表『豊饒の海』創 作ノート1」、松本徹他編『三島由紀夫の演劇』鼎書房、2007年、所収) 三 島の見た賢所における内掌典の動作は、「神を祭ること、神在(い)ますが如く す」(『論語』八佾(はちいつ)第三)であった。 三島は、友人ドナルド・キ ーンへの手紙に「平安朝の昔にかへつた気がしました」と書いている(『三島由 紀夫未発表書簡』中公文庫、2001年)。

 原武史さんは、さらに、こう書く。 三島は1967(昭和42)年の評論家福 田恒存との対談で、「天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――そ れだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」(「文武両道と死の哲学」、『決定版 三島由紀夫全集』39)と言い、『中央公論』1968年8月号の「文化防衛論」で も、戦後の天皇制が、1958年11月の皇太子婚約に端を発したいわゆるミッチ ーブームを頂点に、「週刊誌天皇制」へと堕落したことを徹底して批判しながら、 「保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡(うち)に、祭司かつ詩人である 天皇のお姿は活きてゐる」として、宮中祭祀や歌会始に天皇制の最後の光明を 見いだそうとした。

 『昭和天皇』のあとがきで、原武史さんは、こう素直に書いている。 本書 で触れた三島由紀夫や、保阪正康さんとの『対論 昭和天皇』(文春新書、2004 年)で触れた松本清張は宮中祭祀や、貞明皇后と昭和天皇との確執の問題に最 大限の注意を払っていた。 この点に関する限り、彼らは日本政治思想史系統 の天皇制研究者よりも、視点が「お濠の内側」に深く届いていたように思う。  本書を記すにあたり、最も大きなインスピレーションを得たのは、清張の未完 の大作『神々の乱心』上下(文春文庫、2000年)であった、清張が二・二六事 件の研究のためどれほど史料を集めて読破していたか、想起してみるがよい、 と。