忘れられた元日銀総裁富田鉄之助2022/06/21 07:14

 『福澤諭吉書簡集』第1巻[ひと]11の富田鉄之助も、見ておこう。 天保6(1835)年10月、仙台藩奉行高橋実保の四男として生れた。 安政4(1857)年、藩命により高島流砲術修業のため江戸に赴き、文久3(1863)年には勝海舟のもとに入門、慶応3(1867)年7月には、庄内藩士高木三郎とともに海舟の子息勝小鹿に随行してアメリカに留学した。 仙台藩江戸公儀使大童信太夫の尽力もあって、藩より年千両の学資金が支給された。 幕府公認留学生の第一号でもあった。 滞米中に幕府の瓦解と東北の争乱を知り、明治元年11月にいったん帰国したが、翌2年2月には再びニューヨークに戻った。 3年11月には、後に商法講習所に招くホイットニーが校長を務めるニュージャージー州ニューアークの商業学校Bryant Stratton & Whitney Business Collegeに入学した。

 明治4年2月、ニューヨーク在留領事を命ぜられ、6年2月には副領事に任ぜられた。 7年10月賜暇帰国し、杉田成卿の長女縫と結婚、この時二人の取り交した結婚契約書には行礼人として福沢諭吉、証人として初代駐米公使森有礼が署名している。 明治9年10月ニューヨークより帰国し、12月には上海領事館在勤を命ぜられたが、赴任しないままあらたに外務省少書記官に任じ、本省勤務となった。 11年12月イギリス公使館在勤を命ぜられた。 14年5月に帰国し、同年10月に大蔵省に移った。 その後、日本銀行創設に関与し、副総裁を経て明治21年には総裁に就任。 さらに東京府知事、貴族院議員、富士紡績社長、横浜火災海上社長等を歴任した。 廉潔の士として知られ、大正5年10月歿した。 『仙台先哲偉人録』、吉野俊彦『忘れられた元日銀総裁富田鉄之助』。

 明治8(1875)年5月1日に開館した三田の演説館の建物は、当時ニューヨーク駐在の副領事であった富田鉄之助から福沢のもとに送られてきた諸種の会堂の図面を参考に設計された和洋折衷の建造物である。

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