「かかとで呼吸する」 ― 2024/07/05 07:09
6月22日に発信した「等々力短信」『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>で、「道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。」と書いた。
荘子のいわゆる「踵で息をする」というのが、わからない。 踵は「きびす」とも読み、「踵を返す」「踵をめぐらす」(あともどりをする。引き返す。)、「踵を接する」(人のあとに密着して行く。転じて、いくつかの物事が引き続いて起こる。)、という慣用句もある。
「荘子」「踵で息をする」でネットを検索したら、【踵息】しょうそく 深く呼吸する。[荘子 大宗師]古の眞人~其の息するや深深たり。眞人の息するや、踵(かかと)を以てし、衆人の息するや喉(のど)を以てす、というのが出てきて、臨済宗大本山 円覚寺のサイトに『今日の言葉』2020.11.25.「かかとで呼吸する」があった。
『臨済録』では「一無位の真人」が、しばしば説かれている。 鈴木大拙先生は、『東洋的な見方』のなかで、「一無位の真人の意味が深い。無位とは、階級のないこと、数量でははかられぬこと、対峙的相関性の条件を超脱したということ。真人には道教的臭味があるが、仏者もよくこの字を使うこともある」と書かれているので、もとは道教において使われた言葉だったようだ。
『荘子』の「大宗師篇」に「真人」についての記述がある。 「通釈」を引くと、「むかしの真人は、失敗にさからいもせず、成功を鼻にもかけず、仕事らしい仕事もしない。こういうふうだと、しそんじても後悔などせず、うまくいっても得意にならない。こういうふうだと、高いところに登っても平気だし、水に入っても濡れず、火に入っても火傷をしない。知が道に到達した様子は、こういったものだ」というのだ。
さらに『荘子』では、「通釈」で、「昔の真人は、眠っているときには夢を見ず、起きているときには心配がなかった、うまい物を食べるわけでなく、呼吸はゆったりとしている。真人は踵で呼吸し、衆人(多くの人)は咽喉で呼吸する。人の議論に屈服しないものは、喉から出る言葉があたかも喉につかえた物を吐き出すように出てくるし、欲の深いものは、心の働きが浅い」
「真人の呼吸は踵を以てす」の一言は、白隠禅師もよく引用し、「其の息は深々たり」という様子を表している。
「喉で息をするのでもなく、胸で息をするのでもなく、腹式呼吸というものでもなく、もっと身体の奥深くまで息をして、踵まで達するというのです。 一歩一歩静かに歩いていると、この踵で呼吸していることが味わえるようになります。 真人は、今この生身の身体に生きてはたらいているものにほかなりません。 今現にはたらいているものであります」と、臨済宗大本山 円覚寺の横田南嶺師は説いているのだが、おわかりだろうか。
『福沢手帖』201号に「馬ヵ翁自伝」のようなもの ― 2024/06/27 07:00
実は6月20日発行の『福沢手帖』201号の特集『福沢手帖』200号記念(2)に、「「人間交際」の恵み、福沢諭吉協会五十年」という一文を書かせていただいた。 特集のトップは座談会「福沢諭吉協会のこれから」であり、特集以外では、金文京さんの[福沢諭吉の漢詩 54]「明治二十八年還暦の詩」、森林貴彦さん(慶應義塾高校野球部監督・幼稚舎教諭)の「全国優勝への転機いくつか」が並んでいる。
拙稿は、福沢諭吉協会の土曜セミナーでたまたま同じテーブルに座った小室正紀常務理事に、実は昭和48(1973)年11月の第1回土曜セミナーを聴いているという話をしたことから、「協会草創期の思い出」という原稿依頼が来たのだった。 「長生きも芸の内」というけれど、芸はなくても、齢を取っているだけで、そんなことが起こるのだ。 慶應志木高生の時代に、「福沢いかれ派」になった事情から、長く続けている「ひとり新聞」「等々力短信」の読者になってもらった福沢諭吉協会のたくさんの先生方に可愛がっていただいた話を綴った。 電子メールの時代になって、書簡集を編むのが困難だというが、先生方から頂戴したお手紙に、どんなに励まされたことか、計り知れない。 よく知られているように、福沢は最初societyを「人間(じんかん)交際」と訳し、社交やコミュニケーションの大切さを説いた。 福沢諭吉協会の先生方、史蹟見学会やセミナーや講座の「耳学問」から得た数々の恩恵を、表題の「「人間交際」の恵み、福沢諭吉協会五十年」としたのであった。
たまたま、「等々力短信」に『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>を書いたところだった。 高浜虚子、74歳と81歳の二つの自伝が、文庫本にまとめられた。 虚子がそれを書いた歳を超えるようになった私が、福沢諭吉協会との関わりや「等々力短信」を続けてきた自分史か遺言、「馬ヵ翁自伝」のようなものを、書かせて頂けたことは、まことに有難かった。
編集担当の方は、私の文中にあった、昭和39年4月9日にパレスホテルで開かれた福澤諭吉全集完成祝賀会の記念写真を探し出して、『福沢手帖』201号に二枚掲載してくれた。 また、森林貴彦さんの一文には全国優勝した慶應高校チームが大阪玉江橋北詰に立つ福沢諭吉誕生地の碑を囲む写真が掲載されていて、これは高校3年生の私が昭和35年にこの地で開かれた第百二十五回福沢先生誕生記念式典に参加したことにつながっている。 裏表紙は、「明治三十二年六月『福翁自傳 全』時事新報社發行」の表紙写真。
(「「人間交際」の恵み、福沢諭吉協会五十年」をお読みになりたい方は、馬場までご一報下さい。)
福沢の日清戦争狂詩「李鴻章」と金玉均 ― 2024/06/26 06:57
さて、金文京さんが福沢諭吉協会の季刊誌『福沢手帖』に連載している「福沢諭吉の漢詩」で、金玉均に言及している箇所である。 2022年9月『福沢手帖』第194号の「福沢諭吉の漢詩」49回「日清戦争の狂詩三首――その一「李鴻章」」だ。 明治27年7月に日清戦争がはじまる。 福沢はこの戦争を文明と野蛮の対決と見なして積極的に政府を支持し、個人としては最高額の一万円を寄付するなど、さまざまな支援活動を行なった。
この時、福沢は清国直隷総督の李鴻章、北洋艦隊提督の丁汝昌および副総督のドイツ人ハイネッケンを揶揄する狂詩三首を作った。 詩は9月22日の『時事新報』に匿名で掲載された。 福沢の「李鴻章」と題する詩は、「黄袍(こうほう)と雀帽(じゃくぼう)を剥奪せらるること頻(しき)りなり。 向寒の砌(みぎり) 御察し申す。 重々の業晒(ごうさらし) 君(きみ)諦め給え、不幸にして長命なるも亦た因縁。」 9月15日に平壌が陥落し、17日には戦局の勝敗を決定した黄海海戦の敗戦があり、李鴻章は責任を問われ、皇帝から頂戴した黄馬掛と三眼花翎を取り上げられたことが伝わっていた。
金文京さんは、戦争に全面的に肩入れする以上、敵国の総帥を貶めるのは当然だろうが、福沢にはそれ以外にも李鴻章を憎む理由があった、とする。 福沢と親密だった朝鮮の改革派政治家、金玉均が前年の明治27年3月に上海に誘き出され殺害された事件に、李が加担したことを『時事新報』の明治28年3月1日の社説「責、李鴻章にあり」(『全集』15巻)に書いている。 福沢が日清戦争に賛同した第一の理由は、朝鮮の改革を清国が妨害したという点にあった。 金玉均殺害はその象徴的出来事と言えよう、と。
金玉均書の仮名垣魯文墓碑 ― 2024/06/25 07:00
谷中永久寺「猫塚供養碑」の右にある階段を上った墓地内に、仮名垣魯文の墓碑がある。 この墓碑は室町時代の板碑をはめ込んだもので、表に「韓人金玉均書/佛骨庵獨魯草文」(「草文」は「文を草す」)、裏は「遺言本来空/財産無一物」、その下に「俗名假名垣魯文」とある。 金玉均は、福沢諭吉と深い関係があった。 当時の朝鮮改革派の中心人物で、改革派が起こしたクーデター、甲申事変(1884)失敗後、日本に亡命し、囲碁の本因坊秀栄や中山善吉、明治のベストセラー『佳人之奇遇』の作者、柴四朗、さらに榎本武揚など各界の数多くの人物と交際した。 福沢の狂詩をほめているので、日本の文芸にも理解があったらしい。(と、金文京さんが書いているので、『福沢手帖』の連載「福沢諭吉の漢詩」をいくつか見てみたが、発見できなかった。ただ、金玉均に言及している箇所があったので、いずれ触れたい。) ただし、金玉均と魯文との具体的関係は不明だという。 魯文は明治27年11月8日に歿したが、金玉均はその前の3月に上海で暗殺されている。 だから、碑の字は、金の生前に魯文が頼んで書いてもらったものであろうという。
「猫塚供養碑」は最初、明治11年に浅草公園花屋敷の植木屋六三郎牡丹畠に建てられ、魯文はこの石碑建立に合わせ、同年7月21日、当時書画会会場としてよく用いられた東両国、柳橋の中村楼で珍猫百覧会を開催し、各界から猫にちなむ珍しい書画器玩の出品を求め、2千8百余人が参集したそうだ。 「猫塚供養碑」はその後、谷中墓地内の、これも魯文が建てた高橋お伝の碑の側に移された。 移転の時期は、正岡子規の<猫の塚お伝の塚や木下闇>が明治28年夏の句なので、それ以前である。 永久寺に移された時期は定かでないが、おそらく魯文歿後であろうという。
『図書』6月号は「谷中霊園「中村鶴蔵墓表」」であるが、谷中霊園にあった高橋お伝の碑について、仮名垣魯文が建てたものだが、碑陰の寄付者には、尾上菊五郎、市川左団次など歌舞伎役者が名を連ねる。 みな一代の毒婦といわれたお伝のおかげで一儲けした面々である、とある。
同じ谷中霊園にある「中村鶴蔵墓表」は、二代目中村鶴蔵(つるぞう)のもの。 二代目の師匠、初代中村鶴蔵は、すなわち三代目中村仲蔵。 落語や講談でおなじみの『忠臣蔵』五段目、斧定九郎を黒羽二重姿の色悪風にしたのは初代仲蔵であるが、三代目も明治の名優で、自叙伝『手前味噌』でも知られるという。
谷中をさらに「碑文探訪」する ― 2024/06/24 07:13
金文京さんの「東京碑文探訪」、谷中本行寺から御殿坂をさらに進み、経王寺前で左に曲がって朝倉彫塑館の前を過ぎると、間もなく右側の長安寺「狩野芳崖翁碑」(『図書』3月号)。 芳崖は長府藩(山口県)御用絵師の家に生れ、維新後にフェノロサの指導により西洋画を取り入れた日本画を描き、また東京美術学校(現東京芸大美術学部)創設にも尽力、近代日本画の父とよばれる。 絶筆の「悲母観音像」は重要文化財に指定されている。
長安寺の手前を左に(朝倉彫塑館の方からは右に)曲がり、築地塀のある道を赤塗門の加納院前で左折すると、右側に安立寺(あんりゅうじ)がある。 安立寺には、日本画の下村観山の墓があるけれど、金文京さんが『図書』4月号で扱うのは、「良工市原君墓碣銘」。 明治時代、はじめて西洋式消防ポンプを作った市原求(もとむ)の墓碑である。 市原求は、黒船来航の時期に砲術で功名を立てようと土佐藩に仕官したが、廃藩で伯父を頼って江戸に出、鉄砲師の徒弟となって鉄砲製法を学んだ。 明治6年、川路利良大警視(今の警視総監)がフランスから持ち帰ったハンドポンプを民間に普及させようとしたが、誰も応じる者がいない。 市原はそれを研究し、鉄砲製造の技術を活かして、翌7年に見事おなじものを製造した。 その威力は江戸時代から使われていた木製の簡単な手動ポンプである龍吐水(りゅうどすい)とは雲泥の差で、江戸の華といわれた火事の撲滅に大きく貢献した。 日本橋蛎殻町の市原喞筒(ポンプ)諸機械製作所の製品は、警視庁に採用され、東京から地方にまで急速に普及し、市原は財を成した。
その安立寺から道なりに進むと三崎坂(さんさきざか)の上に出る。 道を渡ったところにある永久寺は、『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などで知られる明治時代の作家、仮名垣魯文の菩提寺である。(『図書』5月号) 寺門を入ると、向かって右から猫塚供養碑、猫猫道人紀念碑、山猫めを登(と)塚が並ぶ。 魯文は大の愛猫家、ただし本物の猫だけでなく人間の猫も好きだったらしい。
「猫塚供養碑」、上部の題額の場所に猫の顔が彫ってあり、文字はない。 題がないが、魯文が「猫塚供養碑」と呼んでいるので、それにしたがう、というのだ。 撰者は成島柳北、もと幕府の奥儒者で、幕末明治期に江戸、東京随一の花街として栄えた柳橋の繁盛とその内幕を描いた『柳橋(りゅうきょう)新誌』の著者として知られる。 「余友(わがとも)仮名垣魯文翁独り猫を愛するを以て称せらる。」「翁遂に自ら号して猫猫(ミョウミョウ(猫の鳴き声))道人と曰う。然れども翁は実は猫を愛する者に非ず。其の刊する所の新聞紙、日々に猫の説話を録する者は何ぞや。蓋(けだ)し猫は獣の至って柔媚(物腰柔らかく人に媚びる)なる者なり。而して世の清声(せいせい)と便体(べんたい・歌声としなやかな肢態)、猫の皮を鼓して(三味線を弾いて)客に侍る者、其の柔媚は或いは焉(これ・猫のこと)より甚だしき者有り。」
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