福沢・小幡・馬場、それぞれの社会構想 ― 2005/07/09 07:09
井上琢智教授は「明六社・日本学士院と共存同衆・交詢社―福沢諭吉・小幡 篤次郎・馬場辰猪―」で、福沢諭吉、小幡篤次郎、馬場辰猪の三人は、「交詢社」 がオープンでボランタリーな組織であるべきだという点では一致していたもの の、啓蒙団体や社交クラブから政治組織へとその性質を変貌することについて は、それぞれ違うスタンスを持っていた、と述べた。 福沢は、知識階級の知 識交換の場、一種の社会教育の機関としての「学問研究、時事諮詢」のための 結社、社交クラブ止まりという考えだった。 福沢は性急な自由民権運動と一 線を画していた。 井上教授は、小幡篤次郎について、西澤直子福澤研究セン ター助教授の研究を引用した。 <小人閑居日記 2005.5.17.>「小幡篤次郎 の役割と社会構想」に書いた議論である。 小幡篤次郎は福沢を受動的に補佐 していただけでなく、独自の社会構想を持っていた。 小幡は、士族社会の人々 が、士族社会にかわって、近代社会において自分たちの存在意義を認めるよう な、新しい帰属意識を持つことが出来る集団として「健全にして且楽しき新家 庭」を考えていた。
馬場辰猪は、昨日みたように、「交詢社」というミクロな「結社」の構成・運 営原理を、マクロな国家という大きな「社会」に拡大し適用しようと考え、「社 規」制定の必要性から法治国家の基本としての「憲法」の必要性に及び、自由 党の中心メンバーとして活動することになる。 やがては集団行動への絶望か ら「結社」を通じての「近代社会」の形成を断念し、「個人」行動の重要性を認 識し、「個人」行動へと走り出す。
前々から思っていたことだが、講演を聴いて、福沢が自由民権運動にもっと 積極的な姿勢を採り、馬場辰猪の運動を推進するような立場に立っていたら、 歴史はどう動いたのだろうか、と改めて考えてしまった。
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