「明治維新」の要因は何か、その序論2007/07/04 06:43

 5月31日の予定だったのだが、例の「はしか」騒ぎで延期になっていた福澤 研究センターの講演会が、6月21日に三田の演説館であった。 渡辺浩東京大 学法学部教授の「「明治維新」と福澤諭吉」だった。 「明治維新」とは?、と いうところから話は始まった。 明治の人が「瓦解」とか、「夢」(今が現実な ら、江戸の昔は夢)といったように、その変革は徹底的であった。 世の中が まったく変わってしまった。 革命と呼んでもよい。 反動勢力もなく、鮮や かな決着だった。 だがそれは、一般の人々のあずかり知らぬ、武士身分と少 数の公家だけの改革、社会の表層だけの政治闘争によるものだった。 知って いる同士の説得、脅迫で事は進み、激しいようで陰湿なものだった。 表層で 事が成ると、急進的な上からの変革が可能で、東京から山奥まで三千万人に浸 透していった。 それが今日の日本のありようにまで関係している。

 どのような革命だったのか、何が決定的な要因だったのか。 ブルジョア革 命か、絶対主義体制への移行か、といった論争には、意味がなくなった。 フ ランス革命にしても、ブルジョア革命ではないという説が今では常識となって きた。 マルクス主義による歴史観が力を失った今、あらためて「明治維新」 を考えてみるのも意味があるだろう、というのが、その序論だった。

 これを聴いて、なるほど、そういう状況なんだ、と改めて思った。 試みに、 『広辞苑』で「ブルジョア革命」を引くと「フランス大革命をはじめロシアの 二月革命など」と、まだ書いてあった。 床屋で『産経新聞』(3日朝刊)の「や ばいぞ日本」没落がはじまった、という特集を読んだら、10年後に中国の学生 がマルクス経済学を勉強しようと思ったら、日本の大学に行くしかない、と言 っている人を紹介し、こう書いてあった。 「“現役”の社会主義国にあっても、 元祖マルクスはとうに死んでしまったのだ。いつまでもマルクスとその親戚筋 の容共リベラルに縛られるような国は、ジワジワと社会の劣化が進む。いま、 「日本の没落」を食い止めないと、日本の未来は描けなくなる。」