戦時下、大学に出来なかったこと2007/07/12 07:49

 戦時下、大学は何が出来て、何が出来なかったかを、白井厚さんは問う。 慶 應では、教員・学生の中で左右の目立った行動は少なく、弾圧による逮捕者は 多くない(何人かで、中には演劇関係者もいた)。 体制順応。 配属将校はあ まり凶暴ではなく、塾長に抑えられていたようだ。 皇国史観や軍国主義に対 する熱狂は少なかったようだが、それに対する批判もまた少なく、世界情勢や 歴史の真実を知る立場にあった教授たちも、時流に流された、と白井さんは言 う。

 1,700名の先輩が答えてくれたアンケートでは、軍隊に行くのが、死ぬほど 嫌が1割、いざ征かんという勇ましいのが2割、あとの7割はしょうがないか ら行く、だった。 白井厚編『アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者 名簿』(2005年)で判明した戦没者数は2,165名。 戦死は大半が餓死だった 過酷な戦場で、「独立自尊」「天は人の上に」は、それをお題目のように唱える ことによって、入隊後の塾生の精神的支柱になった、という。

 日吉に海軍の中枢である軍令部第三部や連合艦隊司令部が入ったため、海軍 との物理的接点が大きい。 日吉の巨大な帝国海軍大地下壕は、重要な戦争遺 跡(松代と違い、日吉は実際に使われた)なので大切に保存してほしいと、白 井さんは言う。 1944年からの突貫工事だった地下壕の掘削には700人の朝 鮮人が従事させられ、近所の農家に物乞いに来た話などが残っているそうだ。