福沢諭吉から見た金三両 ― 2011/02/02 13:47
福沢さんは、緒方洪庵の適塾で、「僕は登楼はしない。しないけれども、僕が 一度び奮発して楼に登れば、君たちの百倍被待(もて)て見せよう」(『福翁自 伝』)と、言っていた「血に交わりて赤くならず」の清浄潔白の人だから、こう いうところで例に引くのも何なのだが、ちょっと『福翁自伝』の記述を相場の 参考にする。
父福沢百助の身分は、下級武士としては最上級の中(なか)小姓という家格 で、禄高は籾13石2人扶持。 籾13石は年俸で、玄米に換算すると7石8斗 に当り、扶持というのは1人当り一日に玄米5合の割で支給されるのだという。 13,4歳の頃、以前福沢の家の頼母子講で、大阪屋という回船屋が掛棄にした金 2朱を、やっと今年は融通がついたから、返せるという母の使いをした話が「一 身一家経済の由来」にある。
兄の三之助が死んで、適塾から中津に帰り、家督を継いだが、母の許しを得 て大阪再遊と決めた。 その時の、福沢の家の借金が40両、その時代の福沢 のような家にとっては「途方もない大借」、家財を売ってようやく返済したが、 臼杵藩に買ってもらった父百助の蔵書が15両、天正祐定の拵(こしらえ)付 の刀が4両、池大雅の柳下人物の絵の掛物が2両2分、頼山陽の半切の掛物が 金2分だった。
奥平壱岐が買った『ペル築城書』の値段が23両。 福沢は、それを密かに 写本にしたものを、翻訳するという名目で、適塾の食客生にしてもらう。 諸 藩の大名の注文で、たとえば『ズーフ・ハルマ』辞書を写本にするのに、横文 字は一枚16文、日本字は8文だった。 その頃の、白米1石が3分2朱、酒 が一升164文から200文、書生在塾の入費は1か月1分2朱から1分3朱あ れば足りる。 1分2朱はその時の相場でおよそ2貫400文になるから、一日 が100文より安い。 それが『ズーフ』を一日に十枚写せば164文(960文= 1貫とする割合で、96文を100文と数えるから、4文のはしたが出る)になる から、余るほどになる。
文久元(1861)年、幕府の遣欧使節の随員となった時、手当として400両も らったので、その中から100両を中津の母に送った。 100両だの、200両だ のという金は生れてから見たこともない金だった。 西川俊作さんによると (『福沢諭吉の横顔』97頁)、二度目にアメリカへ行った慶応3(1867)年当時、 幕臣福沢の給与は年間300両(高150俵と手当15両、480ドル相当)だった という。
(2月1日、腰痛のため、休みました。)
斎藤真一著『明治吉原細見記』 ― 2011/02/03 10:11
世田谷区の図書館の本を「吉原細見」で検索したら、斎藤真一著『明治吉原 細見記』(河出書房新社・1985年)が出て来た。 画文集、表紙が紅いランプ の横に立ち、今まさに紅い長襦袢をずり落そうとする裸の娼妓の絵だったので、 図書館の係の女性が一瞬ギョッとした。 表紙裏の見返しは、表が明治14年3 月の『新吉原細見記』、裏が明治30年3月の『新吉原細見記』の写真判になっ ている。 前者は木版、後者は活版印刷である。 「娼妓揚代金直段附合印」 は、5段階で、金壱圓・金五拾銭・金参拾七銭五厘・金参拾銭・金弐拾五銭だ ったのが、8段階、金壱圓・金七拾五銭・金五拾銭・金四拾銭・金参拾五銭・ 金参拾銭・金弐拾五銭・金弐拾銭となっている。
斎藤真一さんは大正11(1922)年岡山生れの画家で、これ以前に『越後瞽女 日記』(河出書房新社)を出していた。 日露戦争が終った年に、斎藤さんの母 を養女にした、つまり養祖母の「久野おばさん」は、明治3年生れ士族の次女 だったが、父も、父の死後母が再婚した相手も、武士の商法で失敗、家族の危 機を救うため、明治20年18歳の時、女衒の鈴木幾松に連れられて、遠い東京 の吉原遊廓に旅立った。 太夫・源氏名紫にまで出世、明治27年秋、年季が 明けて、吉原を去った。 そして翌年、見合いし結婚したが、子供に恵まれず、 十年後に養女をむかえることになる。
そんなわけで、斎藤真一さんは古書店などで資料を集め、明治20年代の吉 原のリアリズム、風の吹く、空気のある、雨や雪の降る四季のある、提灯や洋 燈のともる吉原を描こうと思い立つ。 祖母を始め、当時まわりにいた遊女(お いらん)や吉原芸妓から描こうと思い、一人一人心を込めて描いていった。
新丸亀楼「いろ香」、東京生れ18歳、父は神社の祠官だったが、訟訴に敗れ て職を失い、苦界に身を沈めた。 角海老楼「鶴尾」、京都生れ、父の家業不振 によって、家計を助けるため、自ら。 千中米楼「東雲」、大阪の商家に生れ、 幼くして父を失い、まもなく兄弟も亡くし、病に伏す母を養うべく。 中米楼 「總角(あげまき)」、越後生れ、恋の果てに憂身を河竹の流れに沈めた。 明 治23年、めでたく廃業したのもつかの間、再び中米楼に現われた、まだ21歳。
明治吉原、遊女の年齢とお金 ― 2011/02/04 06:44
斎藤真一著『明治吉原細見記』に、遊女(おいらん)の年齢について、明治 44年の統計がある。 2,203名の遊女のうち、一番多いのは21歳、つぎが22 歳、あと20歳、23歳、24歳、25歳の順であり、全体の88パーセントを占め てしまう。 19歳は23名、18歳は1名しかいない。 せいぜい30歳までの ものであろう、という。 明治の法では、16歳から娼妓の鑑札が受けられ、年 季は普通6年であった。 思っていたのより、ずっと若く、今の女子高生から 大学生、あと二、三年という年代が中心だったことがわかる。
揚代の説明のところで、明治23年4月の『細見』から遊女一晩の料金が1 円から20銭まで8ランクだったといい、いまのお金になおして、いったいい くらくらいの値段か考えている。 お米は当時1升が10銭、いま(1985年) 大まかに600円とすると、1円という一番高い遊女で6,000円。 身売りする ときのお金が300円位だとすると、いまのお金で180万円になる。 180万円 というお金で、一人の女性の6年間もの自由を奪い、苦しく、辛い毎日を送ら せるのだ。 揚代が6,000円だとして、彼女らの手に入るのは、その内25パ ーセント、多くて1,500円、その内900円がもろもろの借金の返済に充てられ、 手元には600円にしかならない、とある。
「女衒」「初見世」「貸座敷」 ― 2011/02/05 07:02
『明治吉原細見記』から、つづき。 まず「女衒(ぜげん・「衒」は売る意)」、 本人は「世話人」、一般には「周旋業」、貸座敷*(楼、廓)では、「判人(はん にん)」と呼ばれていた。 やさしい顔立ちで、人好きのする人柄だったとか、 「きれいな着物を着て、おいしいものを食べて、ただお酒の相手でもしてれば いいのだから、こんな楽な仕事はない」、そんな、うまいことを言って、何も知 らない女の子を信用させてしまう。
初めて客をとることを「初見世」といった。 この夜から、苦しく、辛い日々 が始まる。 来る日も、来る夜も、針のむしろの責め苦に泣いて、なんとか開 き直った強さを得るまで、半年はかかるという。 朝のうちに髪を結い、それ から一休みする。 午後三時ころ起きて御飯を食べて、風呂に入る。 化粧部 屋でお腰巻(こし)一つになって化粧し、着物を着る。 長襦袢、伊達巻、上 襟(うわえり)、裲襠(しかけ)と、どれも赤い派手なものばかり。 したくが 出来ると、楼主に「初見世」に出ます、と挨拶する。 蕎麦が配られる。 楼 主は、「一生懸命働いて下さい」と言う。 「働く」ということがどんなことを 意味しているかを考えれば、奇妙な世界だと思う、と斎藤さんは書いている。
店先に奉書紙を五枚つないだ縦紙に「初見世○○」と看板がかかげられ、そ れが一か月つづくという。 吉原に身を沈めたといっても、この「初見世」ま では、まだこの世界の実相がわからず、この夜に、初めてその辛さを体験する。 多くの娘は、この日から「死のう」と思い、女衒を恨み、楼主を極悪非道の男 と憎み、わが身の情けなさに歯を噛んで泣く、と大正時代に吉原の花魁だった 森光子さんという人が書いているそうだ。 そして、死んだら、母や妹はどう するだろう、沢山の借金を背負って、又苦しむのかと思うと、死ぬ決心が、や がて開き直った気持に変っていくという。 こういうのを読むと、落語の廓噺に、ただアハハとは笑っていられない気持 になる。
貸座敷*…明治5年、マリー・ルーズ号事件に関してペルー政府から遊女屋 は奴隷制度だと指摘された明治政府は「娼妓解放令」を出して、傾城屋、娼家、 妓楼、青楼、女郎屋、遊女屋と呼ばれるものはすべて「貸座敷」と呼ぶことを 命じた。 遊廓を認めないこととし、廓は単に女性に座敷を貸すだけの「貸座 敷」とし、「芸娼妓」を職業としたい女性は自分の意志で「鑑札」を得て仕事を することにした。 だが呼び名は変っても、内実はまったく同じだった。
「吉原の遊び」と「引手茶屋」 ― 2011/02/06 08:57
大門(おおもん)を入ると、客を手引きする「引手茶屋」が、ずらりと並ん でいた。 そこには、吉原芸妓(げいしゃ)がいて、にぎやかに遊ぶことによ って、あらわな夜の行為を、幾重にも隠し、華やかな装いにつつむ役割をして いた、と斎藤真一さんは書いている。 吉原芸妓は江戸時代から、他の場所の 芸妓より別格に扱われるくらい意気地を誇りとしていた。 つまり、娼妓(お いらん)とは一線を引いて、芸のみを売り、娼妓を引き立てる役に徹していた。 明治20年代の芸妓は、三味線のほかに、その頃流行した月琴や胡弓をよく扱 ったという。
大門のところに「引手茶屋」が並んでいたのは、さりげなく酒を飲み、芸者 幇間をあげて騒いでいるうちに、それとなくそういう気になって、では案内し てもらおうかということになる、「遊び」のルールがあったかららしい。 直接 的な遊びは「野暮」として、ストーリー(手順)に乗った「形」を尊重したの だ。 格を重んじる一流の楼(大見世)には、この茶屋を通して行かないかぎ り、直接には受け付けてもらえない仕組になっていた。 茶屋で茶菓だけの者 もいたが、酒、料理を出させ、さらには宴席をはったりと、そうこうするうち に夜もふけて、茶屋の女中が提灯をともし、どてらに着替えさせるか寝巻をも って、しかるべき楼へ客を案内する。 翌朝、また茶屋の女中が、あらかじめ 客の帰る時間をきいておいて、迎えに行く。 ここで客は、もう一度茶屋にあ がって、楼で遊んだ費用、茶屋の費用、全額の勘定をする。 直接楼にはお金 は一銭も払わない。
よく落語で、初めての花魁(おいらん)を「初会」、二回目を「裏を返す」、 三回目になってようやく「馴染」になる、という。 江戸時代には、「初会」で 相手の花魁がきまると楼の座敷で芸者幇間をあげて宴会をし、そのまま帰らな くてはならなかった。 「裏を返す」のも、やはり一回目と同じように宴会を して帰る。 「馴染」になると、ようやく花魁と枕を共にしてもいいことにな るが、そうはいかない場合もあった。 格式高い太夫は、嫌なら枕を共にしな くてもよいという。 これが吉原の「遊び」だから、「粋な客」と評判をとるに は、大変な努力と大金と器量がいった。
明治初期には、まだそういう気風が残っていたらしいが、明治30年代の文 献に、近頃はなにごとも「実利主義」お手軽、軽便になって、次第に昔のよさ がなくなっていく、と嘆く記述の多いのを、斎藤真一さんが見つけている。
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