江戸座落語的俳句「浅葱空」2011/01/01 07:50

 明けましておめでとうございます。 昨年も俳誌『夏潮』一月号の、黒潮賞 (60歳未満)と親潮賞の結果発表と、私の応募作から、この日記を始めている。  第2回の今年は、黒潮賞が朴四五人さんの「二十句」、親潮賞は児玉和子さん の「円き空」が受賞作に決まった。 私の親潮賞応募作は、江戸と落語関係に テーマをしぼっていたので、ちょうどよかった。 落語研究会の覚書を中断し て、元日早々の初笑いに供することにする。

    「浅葱空」

大江戸の浅葱の空に御慶かな

万歳のよく灼けてゐる顔の皴

鈴本へ行く気になるも三日なり

凧揚げや子よりも親の夢中なる

場所取は新入社員飛鳥山

空き腹に味噌田楽の匂ひかな

梅雨寒やへつついの角欠けてゐる

蛞蝓の長屋のあたりスカイツリー

堤防の下佃煮屋祭町

短夜や若旦那てふ親不孝

うなぎやの焼けて来る間の欠伸かな

父帰り土産の蛍蚊帳の中

猪牙で行く四万六千日日の盛り

居酒屋の皿をはみ出す秋刀魚かな

ちとつゆをつけ音高く蕎麦すゝる

原行けば一ツ目の出る野分かな

地芝居にお花と丁稚来てをりぬ

酉の市吉原を見て帰りけり

熱燗に当て鮟鱇のやうなもの

年の瀬の咄に残る言訳屋

鯉昇の「味噌蔵」2011/01/02 07:31

 出て来た鯉昇は、しばらく黙っていて、ニャッと笑った。 えー、日本人の 寿命が延びているそうで、役所の記録では150歳、180歳という人もいるらし い。 体が資本の業界なので、熱演はしないようにしている。 去年は、みん ながマスクをしていた。 客席にも沢山いて、表情がわからない、楽しんでい るのか、苦しんでいるのか…。 マスクが品切れになった時、先輩のおかみさ んが心配性で、北海道へ旅に出ていた先輩にありったけ買ってくるようにとケ ータイがかかった。 たまたまマスクメロンの売場の前にいた。 しばらくは、 メロンの煮付けがおかずになった。 去年の1月4日、女房がインフルエンザ に罹った、熱が80度出て、体がバラバラになる感じだという、医者が風邪薬 をくれて、副作用で時々異常行動が出る、と。 異常行動というのは、ひと頃 の草彅剛のようなもの。 年始の挨拶を口実に飲み歩く時期なのに、断わりま した、五軒目は…。 家へ帰ると、女房が三つ指ついて出迎えて、お帰りなさ いませ、という。 食事も、私の大好物ばかり並んでいる。 原因を考えると、 風邪薬。 未だに服用だけは続いている。 はなの師匠の小柳枝は、稽古にな るから野宿をしろと教えた。 段ボール二枚と古新聞紙で、阿佐ヶ谷近くで寝 る。 寒いけれど、段ボールと古新聞は、寝具だと思った。 てっきり、ほか の師匠も、野宿をさせるのかと思っていた。 集合住宅に住んでいるが、下の 家が寒がりの一家で、秋口から目一杯暖房をする。 下の家が里帰りすると、 寒い。

 歳でも、嫁持たない咄家が、ずいぶんいますよ、と「味噌蔵」に入った。 味 噌屋の吝嗇兵衛さん、おかみさんは御まんまを食べるからともらわない。 親 戚が、親類づきあいをやめる、商売物の味噌の取引をやめる、と脅したので、 婚礼の費用は皆さんでと条件をつけて、嫁をもらった。 嫁さんを、(腹が減る ので)ささやくように呼んで、夜は傷むから足袋を脱げ、着物も脱いで、お腰 だけになって、と。 自分は背中に畳の跡がつく風呂敷のような蒲団にくるま って、別々に寝ていたが、ある寒い晩に耐えられず、二階の嫁さんの(嫁入り 道具の厚い)蒲団に入って寝ると、暖ったかい。 つい、毎日暖ったかい蒲団 に寝ていると、おかみさんのおナカに暖ったまりのかたまりが出来た。

 番頭の入れ知恵、実家で費用向こう持ちでご出産、お祝いのご馳走があると いうので、貞吉を供に、出かけた間に、18年奉公して、おかずは8年に一度、 オリンピック・万博・オリンピック・おかず、実のない味噌汁で「ソ汁」とい う不満が爆発、番頭も帳面をドガチャカしての、ご存知大宴会となる。 鯉昇 は快調に演じて、楽しい「味噌蔵」になった。

正蔵の「稲川」2011/01/03 07:43

 「稲川」、題名を見て、首をかしげる、知らない噺だ。 正蔵はうなづくよう にして出てきた。 洗ったままのようなボサボサの頭、緑色の着物(羽織なし?) に紋がついている。 江戸と大坂で別々にやっていた頃の、昔の相撲の噺だ。  大坂の池田出身、猪の川と書いて猪川(いながわ)、改めて稲川十五郎という関 取が、江戸へ来た。 強いの、強くないの……、強い、勝ちっぱなしなのだが、 なぜか贔屓(ひいき)が一人もつかない。 近寄り難いところがあるのだ。 水 が合わないのかもしれない、これではもう、大坂に帰ろうか、と思っていると、 御薦(おこも)さんの贔屓が来たという。 入ってもらえ。 子供の時分から 相撲好き、贔屓の引き倒しになるかもしれないが、お願いがある。 贔屓の真 似事がしたい、召し上がって頂きたいものがあると、私のもんでも召し上がっ て下さるだろうか。 喜んで、頂きます。 今、支度してくると、蕎麦を竹の 皮の上にのせ、茶碗は私の使っているものを、きれいに洗ったからと、差し出 す。 蕎麦屋が器は貸してくれなかったから。 ごっつぁんです。 食べて下 さった、有難い、蕎麦の方から飛んで行くようだった。 関取、涙ぐんでいら っしゃるが、蕎麦が喉につかえたか、山葵が効いたのか。 こんな嬉しいこと はない、江戸に贔屓が一人もいなかった、蕎麦が何よりのご馳走、これで大坂 へ胸張って帰れる。 百万石のお大名も、御薦さんも、贔屓の二文字にかわり はない。 政五郎と名乗ったその男が声をかけると、五人の男がいい酒、いい 料理を運んできた。 御薦さんの形で、人を試すようなことをして、すまなか った、と丁寧に謝った。

 男の正体は、また明晩、という訳にはいかない。 これより先、魚河岸近く の蕎麦屋で、仕事を終った連中が飲んでいた。 相撲の黒雲権五郎の所へ、蕎 麦を三十人前持って行った。 本人は出て来ず、弟子に渡して来た。 風呂敷 を忘れて戻ると、障子の向うで話しているのが聞えた。 一流の料亭の料理を 重箱で持ってくるがいいじゃないか、蕎麦なんかドブへ捨てちゃえ、と。 政 五郎が、稲川十五郎なら、親父さんの蕎麦だって食ってくれる、人の分け隔て をする人じゃない、と言い出した。 それじゃあ、二十人前、御薦の形で持っ て行ってみろ、と善太が言い、勝負をしようということになる。 善太が勝て ば、ナカ(吉原)を一晩おごる、負ければ、河岸一統で贔屓にすることに…。  政五郎、魚を見る目もあったが、人を見る目もあった。 ご贔屓を得た稲川 十五郎、大坂に帰るのを止めて、いつまでも江戸にいさせていただきます、と いうことになった。  正蔵がマクラも振らず、一気に語った物語、聴かせたという部類に入るだろ う。

権太楼の「富久」2011/01/04 07:39

 権太楼、泳ぐように出て来た、大拍手だった。 今年は慎重に頑張って来た のに、着地に失敗して、転がった。 11月、北海道で倒れた。 腎臓、肝臓、 膀胱が爆発寸前で、北海道で死んだら不動坊火焔になるところだった。 家に いるのは、お滝さんじゃなくて、○○○のかみさんだけれど。 入院していて、 こうやって出て来た。 医者が安静にして寝ていて下さい、一番いいのは落語 聴いて笑うことです、という。 DVDで円生、志ん朝、小さんを見たけれど、 寝ていて笑えるもんじゃない、正座して聴かなければならない。 正蔵を聴い たら、腹立つし…。

 年末ジャンボが好き、昔は12月31日に宝塚劇場で抽選会があって、弓矢、 アーチェリーでパシャッとやる。 あれを今年は、私がやるんです。 不満で すか。 1億円か2億円か、当ったことがないから分からないけれど、ケツ一 桁を私がパシャッとやるんです。 当ったら、私のおかげです。 2億円当っ たら、私に少し下さい。

久さん、どこへ行くんだ、と声を掛けて富籤の札を売ったのを、権太楼はラ クウンさんと言ったような気がした。 アンツルさんの本を見たら、先代の文 楽は「文さん」だったから、文さんと言ったのかもしれない。 松百十番、大 神宮さまのお宮の中におさめても、ヘベノレケになっているから、拍手の手が 合わない。 千両なんてことは言わない、二番富の五百両でいい、五百両当っ たら、堅気になって、表の小間物屋が二百三十両で売りに出ていたのを、居ぬ きで三十両まけさせて、その三十両で大神宮さまの立派なお宮を建てます。 女 房をもらう、芸者衆はダメ、花魁はごめんこうむる、お妾さんは旦那がいる、 素人は来ない、いないよ、いないと思うでしょうが、これがいるんだよ、万梅 のお松ちゃん、言葉数が少ないのがいい。 決めましたから、大神宮さま、よ ろしくお願いします。

 十二月半ば、うたた寝をしていると、ぶつけている、半鐘が鳴って、芝金杉 どまりだという。 芝神明の田丸屋さん、酒でしくじっているから、火事見舞 に行けばと、駆けつける。 その後の展開は、ご存知の通りの「富久」、権太楼 は病み上がりを感じさせない熱演で、楽しく愉快に平成22年の落語研究会を 目出度く打ち上げた。

「江戸ッ子」は関東大震災まで2011/01/05 07:00

ちょうどひと月前の12月4日「ポプラ社の「百年文庫」『音』」で、川口松 太郎の「深川の鈴」に魅せられて、この作品を含む自伝的短篇の連作『人情馬 鹿物語』が読みたくなったと書いた。 図書館で「汚損あり」「水濡れあり」と いう、かなり汚れた講談社文庫を借りてきて読んだ。 前にも書いたが、川口 松太郎は講釈師・悟道軒円玉の家に住み込んで講談速記の手伝いをしながら、 江戸文芸や漢詩を学び、1923(大正12)年帝劇創立十周年記念の脚本募集に 応募した『出獄』が入選し、作家デビューを果した。 円玉の家は、その年の 関東大震災まで、深川の森下にあった。 私は学生時代、塾長を務めた奥井復 太郎教授の「都市社会学」の講義を聴いたが、その核心は、東京が大震災を境 にして、大きく変化した話であった。

 第一話「紅梅振袖」を、浅草生れの川口松太郎は、よく人に「君は江戸ッ子 だな」といわれると、始めている。 大正末年までの東京人は「江戸ッ子」と 呼ばれるのを得意にした。 気前が好くて、任侠精神があって、人情の機微が 判る。 気前が好いのではなく、愚かな無駄使いが多いので、任侠といえば聞 こえは好いが、その実はお節介なおっちょこちょい。 無計画で行き当たりば ったりで、「宵越の銭は持たねえ」なんぞと愚にもつかぬ見栄を張る間に、田舎 者が強靭な根を張って、東京は「江戸ッ子」の物ではなくなった、と川口松太 郎は書いている。

 『人情馬鹿物語』で、講談速記で修業したストーリーテラー・川口松太郎に よって語られるのは、そんな「江戸ッ子」が本領を発揮する東京だった。