講談の全盛期と大震災後の衰微2011/01/12 07:02

 ざっと見たところでは、有竹修二さんの『講談・伝統の話芸』で、悟道軒円 玉が出てくるのは一箇所だけだった。 「新聞と講談」という一文で、昭和47 (1972)年2月刊行の『毎日新聞百年史』の連載読物に関する記述を紹介して いる。 それからも知れる講談の全盛期は、明治30(1897)年ごろから40(1907) 年ごろだという。 新聞で講談速記をもっとも大切に扱ったのは『国民新聞』 で、昭和になっても夕刊に講談が載っており、「しかもかの悟道軒圓玉が自ら筆 を採っていた」とあった。 それで「かの」の意味するところを探したが、見 つからなかった。

5日の「「江戸ッ子」は関東大震災まで」に書いた、東京が大震災を境にして 大きく変化した件だが、「「講談入門」のころ」の項目に、講談が大震災を契機 として衰微の色を濃くした、とある。 東京の市井生活が、このころから変わ ってきた。 (1)下町の静かな生活ぶりが次第に姿を没した。 町中の商家 は、店と住まいが一緒だったのを、住まいは郊外へ移す人が多くなった。 大 きな商家の通い番頭が、町内の程近い所に家を持つというような形のものもな くなった。 (2)隠居というものもなくなった。 漱石の『硝子戸の中』に 出てくる日本橋瀬戸物町の伊勢本という席の定連席に坐っている連中―「時間 が余って使ひ切れない有福な人達なのだから、みんな相応の服装(なり)をし て、時々呑気さうに袂から毛抜などを出して根気よく鼻毛を抜いてゐた」よう な人種は東京からいなくなった。 (3)朝早くから仕事をして昼ごろには体 が空くという稼業の人々―魚河岸、大根河岸の問屋さん、鳶、大工の棟梁、そ の他職人衆の親方など、仕事がすむとすぐさま講釈場へ来た人々の、仕事振り と生活ぶりも変ってきた(有竹さんが八丁堀聞楽亭主人五十嵐亀一郎さんから 聞いた話)。  それはかつて奥井復太郎教授の「都市社会学」で聴いたのと、同じような変 化だった。