小泉信三さんと講談、八丁堀の講釈場 ― 2011/01/11 07:15
有竹修二さんの『講談・伝統の話芸』をパラパラとやってみて、いろいろな ことがわかった。 まず、小泉信三さんと講談の話。 小泉信三先生と有竹さ んは書くのだが、その『思ふこと憶ひ出すこと』に「寄席の記憶」というのが あって、初めに「落語研究会」のことなどが書かれた後、講釈のことに及び「講 釈は、落語より後(おく)れて面白味を解したやうに思ふ。今、時事新報にゐ る有竹修二君がまだ学生の頃、教授の私を、八丁堀の講釈場へつれて往ってく れたのが、始めだったやうに憶ひ出される」とあるそうだ。 有竹さんの記憶 では八丁堀でなく、神田の小柳亭という講釈場としては最も著名な席だったら しく、有竹さんが慶應義塾を卒業する直前の、馬琴が好きで、彼の出る席を始 終追っかけて歩いていた頃のことだという。 もちろん八丁堀へも御伴したこ とがあり、聞楽亭(ぶんらくてい)という席で、一人で聴いていたら、偶然、 先生が入って来られ、帰りに一緒に銀座を散歩して帰ったこともあったのが、 有竹さんの日記に記録されていた。 昭和2年8月6日(土)の夜、馬琴独演 会で、前座に伯鱗が「柳生十兵衛」を読み、お目当ての馬琴が上がる時、意外 にも、洋服姿の小泉先生が入場された。 馬琴は「最上騒動」と「将門の旗挙 げ」をやり、先生と二人久安橋(きゅうあんばし)を渡り、中橋広小路に出て、 「銀座の通り人の子通らず、キリンに寄って冷茶を喫み帰る」とある。
第二には、鴎外、漱石、荷風―この三文豪が揃って、講談を解し、釈場通い をしたこと、これは記録されるべきことである、と有竹修二さんは書いている。 講釈場は、その町附近の市井人の憩いの場であったが、明治以来、かなり知識 人が寄席の片隅にいたという。 漱石の「硝子戸の中」、鴎外の「鈴木藤吉郎」、 荷風の「築地草」(岩波書店『荷風全集』14巻所収)に、講談が描かれている そうだ。 荷風は築地に住んでいた頃、毎日日課のように築地川の裏道づたい に、八丁堀の講釈場へ通った。 八丁堀には上に出た聞楽亭と、寿亭(ことぶ きてい)があり、二つとも講釈の定席としてはきこえた席だった。 荷風は毎 日このどちらかに来て、煙管で煙草を喫いながら、いろんな講釈を聴いていた。
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