「江戸ッ子」は関東大震災まで2011/01/05 07:00

ちょうどひと月前の12月4日「ポプラ社の「百年文庫」『音』」で、川口松 太郎の「深川の鈴」に魅せられて、この作品を含む自伝的短篇の連作『人情馬 鹿物語』が読みたくなったと書いた。 図書館で「汚損あり」「水濡れあり」と いう、かなり汚れた講談社文庫を借りてきて読んだ。 前にも書いたが、川口 松太郎は講釈師・悟道軒円玉の家に住み込んで講談速記の手伝いをしながら、 江戸文芸や漢詩を学び、1923(大正12)年帝劇創立十周年記念の脚本募集に 応募した『出獄』が入選し、作家デビューを果した。 円玉の家は、その年の 関東大震災まで、深川の森下にあった。 私は学生時代、塾長を務めた奥井復 太郎教授の「都市社会学」の講義を聴いたが、その核心は、東京が大震災を境 にして、大きく変化した話であった。

 第一話「紅梅振袖」を、浅草生れの川口松太郎は、よく人に「君は江戸ッ子 だな」といわれると、始めている。 大正末年までの東京人は「江戸ッ子」と 呼ばれるのを得意にした。 気前が好くて、任侠精神があって、人情の機微が 判る。 気前が好いのではなく、愚かな無駄使いが多いので、任侠といえば聞 こえは好いが、その実はお節介なおっちょこちょい。 無計画で行き当たりば ったりで、「宵越の銭は持たねえ」なんぞと愚にもつかぬ見栄を張る間に、田舎 者が強靭な根を張って、東京は「江戸ッ子」の物ではなくなった、と川口松太 郎は書いている。

 『人情馬鹿物語』で、講談速記で修業したストーリーテラー・川口松太郎に よって語られるのは、そんな「江戸ッ子」が本領を発揮する東京だった。