正蔵の「稲川」2011/01/03 07:43

 「稲川」、題名を見て、首をかしげる、知らない噺だ。 正蔵はうなづくよう にして出てきた。 洗ったままのようなボサボサの頭、緑色の着物(羽織なし?) に紋がついている。 江戸と大坂で別々にやっていた頃の、昔の相撲の噺だ。  大坂の池田出身、猪の川と書いて猪川(いながわ)、改めて稲川十五郎という関 取が、江戸へ来た。 強いの、強くないの……、強い、勝ちっぱなしなのだが、 なぜか贔屓(ひいき)が一人もつかない。 近寄り難いところがあるのだ。 水 が合わないのかもしれない、これではもう、大坂に帰ろうか、と思っていると、 御薦(おこも)さんの贔屓が来たという。 入ってもらえ。 子供の時分から 相撲好き、贔屓の引き倒しになるかもしれないが、お願いがある。 贔屓の真 似事がしたい、召し上がって頂きたいものがあると、私のもんでも召し上がっ て下さるだろうか。 喜んで、頂きます。 今、支度してくると、蕎麦を竹の 皮の上にのせ、茶碗は私の使っているものを、きれいに洗ったからと、差し出 す。 蕎麦屋が器は貸してくれなかったから。 ごっつぁんです。 食べて下 さった、有難い、蕎麦の方から飛んで行くようだった。 関取、涙ぐんでいら っしゃるが、蕎麦が喉につかえたか、山葵が効いたのか。 こんな嬉しいこと はない、江戸に贔屓が一人もいなかった、蕎麦が何よりのご馳走、これで大坂 へ胸張って帰れる。 百万石のお大名も、御薦さんも、贔屓の二文字にかわり はない。 政五郎と名乗ったその男が声をかけると、五人の男がいい酒、いい 料理を運んできた。 御薦さんの形で、人を試すようなことをして、すまなか った、と丁寧に謝った。

 男の正体は、また明晩、という訳にはいかない。 これより先、魚河岸近く の蕎麦屋で、仕事を終った連中が飲んでいた。 相撲の黒雲権五郎の所へ、蕎 麦を三十人前持って行った。 本人は出て来ず、弟子に渡して来た。 風呂敷 を忘れて戻ると、障子の向うで話しているのが聞えた。 一流の料亭の料理を 重箱で持ってくるがいいじゃないか、蕎麦なんかドブへ捨てちゃえ、と。 政 五郎が、稲川十五郎なら、親父さんの蕎麦だって食ってくれる、人の分け隔て をする人じゃない、と言い出した。 それじゃあ、二十人前、御薦の形で持っ て行ってみろ、と善太が言い、勝負をしようということになる。 善太が勝て ば、ナカ(吉原)を一晩おごる、負ければ、河岸一統で贔屓にすることに…。  政五郎、魚を見る目もあったが、人を見る目もあった。 ご贔屓を得た稲川 十五郎、大坂に帰るのを止めて、いつまでも江戸にいさせていただきます、と いうことになった。  正蔵がマクラも振らず、一気に語った物語、聴かせたという部類に入るだろ う。