千島列島の最北端、占守島での拓殖活動 ― 2012/02/22 03:58
舟川はるひさんの講演「郡司大尉の千島開拓」は、本格的移住の時代である 1896 (明治29)年9月から1904(明治37)年9月まで8年間の、第二次報效義会 の活動の話が中心だった。 海軍という枷を外され、拓殖に重点が移った。 政 府から千島移民保護金(3年間で2万8千円)が出て移住が実現する。 郡司大 尉と報效義会員は、家族とともに永住する覚悟であった。 地図を見ていただ くと、国後(くなしり)・択捉(えとろふ)の先に連なる千島列島の最北端、カムチ ャツカ半島に面して占守(しゅむしゅ)島、そして幌筵島、阿頼度島がある。
9月1日、汽船で57人と動物7種(馬、牛、豚他)23匹が占守島片岡湾に上 陸した。 7日には家屋の建築を開始、板壁に新聞紙を何枚も重ねて貼り付け、 屋根はトタン葺の掘立小屋だった。 極寒の地でこの住居では、さぞ苛酷な生 活であったろう。 10月には児童の教育も始めている。 11月には事務所、 牧畜小屋、占守神社(鳥居)が完成した。
生活は、文明人が原始生活に直面したものだった。 漁業部員、猟業部員、 農業部員に事業を分担した。 収益は報效義会にすべて納め、物品で分配する 一種の共産主義的共同体だった。 政府援助(保護金)が打ち切られてからは、 一企業体となる。 食生活は、麦飯と禁酒(明治半ばの禁酒会の流れ、大谷本願 寺系か)だったが、鴨、魚など案外豊かなものを食べている。 娯楽は、スポー ツ(運動場、鉄棒、集会所(道場)に野球道具)やカルタ。 ロシア語の教育もあっ た。
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