「大学教授 与謝野寛―「幻の塾歌」の周辺―」 ― 2012/06/20 01:32
宮川幸雄さんは最近、「『塾歌』から見えてきた『信時潔』」の続編ともい うべき「大学教授 与謝野寛―「幻の塾歌」の周辺―」を『うらら』第63号(2012 年5月)にお書きになった。 森鴎外が慶應義塾の大学部文学科刷新のために、 永井荷風を推薦し、明治43(1910)年2月に教授に就任した荷風が『三田文 学』編集主任として、自然主義が主流であった文壇に新風をもたらすとともに、 水上滝太郎、佐藤春夫、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育て、学外から も谷崎潤一郎を始め多くの俊秀を『三田文学』から世に送ったことはよく知ら れている(大正5(1916)年3月退任)。 だが森鴎外はまた、後に与謝野寛 を慶應義塾に推薦し、寛は大正8(1919)年に教授に就任、昭和7(1932)年 までその任にあったことは、余り知られていない。 鴎外は最初、与謝野晶子 を推薦したが、まだ女性の教授のいない時代で慶應も決めかね、寛が行きたい ということになったらしい。 晶子のほうが著名になり、夫妻の力関係は逆転 していたと、世間も見ていたようだ。
与謝野寛の慶應教授時代の大正15(1926)年、新塾歌の懸賞募集があり、 翌昭和2(1927)年寛の試作がなされた。 しかし決定版とはならず、昭和9 (1934)年、「福澤先生誕生百年並日吉開校記念祝賀会」の祝典曲として、信 時潔の曲だけが生かされ、「日本の誇」という歌に生まれ変わったことは、き のう書いた通りである。 宮川さんの新しいエッセイが「大学教授 与謝野寛― 「幻の塾歌」の周辺―」となっている所以である。
与謝野寛版「幻の塾歌」の歌詞は、つぎのようなものだったそうだ。 「光 は東より、我らが三田の岡より、豊かに実学の曙、常に輝く。/世に勝つ経綸 も、個人の思想、気品も、我等の頼る所、「独立自尊」唯だ是れ。/徳の柱、 学の権威、悠々生を愛し、高き範を建てし偉人福澤先生。/我等の任は大、額 に汗し、学びて、おのおの先生を継ぐ者、永く振はん。」
そこで私は、富田正文が作詞を依頼されて書いた「日本の誇(ほこり)」の 歌詞を確認しようとして、『慶應義塾史事典』付録「義塾史資料」866頁の「日 本の誇」を見て、変な所に気付いた。 一番の三節目の初めに「わが師出でゝ 指すころ」とある。 語呂が悪く、記憶とも違うので、今年の「第177回福澤 先生誕生記念会」のパンフレットを見てみたら、「わが師出でゝ指(ゆびさ) すところ」となっている。 『慶應義塾史事典』の誤植ではないのか。 さっ そく、福澤研究センターの都倉武之准教授に照会したら、確かに間違いで、現 在出ている『慶應歌集』という本の歌詞に誤植があり、それを転記したために 起こった間違い、なのだそうだ。 高校新聞部仲間でもある宮川さんのおかげ で、『慶應義塾史事典』の誤植を一つ発見することになった。
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