渋沢栄一と福沢諭吉2012/06/14 03:51

 9日、小尾恵一郎ゼミナールのOB会が交詢社であって、いつもながら同期 の5期は最大勢力の10名が参加、ひさしぶりの懐かしい顔にも会え、楽しい 時間を過ごした。 5月17日に『相撲の経済学』その他の応用経済学の著書を 紹介した中島隆信教授(24期)が、一番の若手で参加していたので、ちょっと 話をする。

 同期の内、まだ上場会社の社長でがんばっているS君が、渋沢栄一と福沢諭 吉は同時期の人なのに、まったく関わりがなかったようなのはなぜか、疑問に 思っている、と言う。 私も学校を出てしばらく第一銀行に勤め、渋沢の丁稚 をしていたから、関心はあるが、明確な答は出来なかった。 帰宅して、さっ そく『福澤諭吉事典』(慶應義塾発行・2010年)の索引を見た。「渋沢栄一」 は6か所にあり、内、II章「人びと」には「渋沢栄一」の項目も立っている。

 それによると、「福沢諭吉との関係はかならずしも密接とはいいがたいが、 お互いが実業、文化の発展に尽くした功績を認め合っていた」とのことで、渋 沢史料館には「福沢からの書簡として、明治26(1893)年の米国ボストンヘ ラルド新聞社主、同社記者を自邸に招き一席設けるに当たり、栄一を招待した 一点が残されている。」(井上潤)そうだ。

 索引から、ほかの所を読むと、明治中期、渋沢がたくさんの会社をつくり、 福沢は慶應義塾の卒業生を実業界に送ったり、投資をしたりしていた時期に、 「かならずしも密接とはいいがたい」ところが、見えて来る。(以下、○印)

 まず、その《背景》を見ておく。 三菱の岩崎弥太郎が明治7年東京に進出 した際、人材不足を補うため、岩崎の従弟で慶應に学んだ豊川良平の紹介で 、 慶應出身の荘田平五郎を採用した。 福沢は荘田を通じて、三菱の社風に好感 を持ち、慶應から山本達雄や朝吹英二らの入社も続いた。 福沢は、政治家後 藤象二郎が高島炭鉱の放漫経営で窮地にあるのを知り、炭鉱を三菱に買い取ら せることに奔走、説得承諾させ、その後三菱の高島炭鉱は日本有数の炭鉱に発 展した。 それで明治14年の政変では、三菱が大隈と福沢の資金源とみなさ れたため、以後政府は三菱の経営を圧迫、16年には共同運輸会社を創立して、 対抗させ、両社は熾烈な競争を繰り広げた。 明治18年、両社は合併して、 日本郵船会社になる。

 ○三菱の海運事業独占に反感を持ち始めていた渋沢栄一や三井物産の益田孝 ら、反三菱勢力が結集し、共同運輸会社を設立した。

 ○三井銀行で、中上川彦次郎(福沢の甥)による改革が行われた際、最高顧 問井上馨、益田孝、渋沢栄一などが、これに批判的姿勢を取った。

 ○北海道炭礦鉄道会社。 渋沢栄一は、発起人の一人。 福沢は設立計画か ら少なからぬ関心を持ち、株を保有、福沢桃介を入社させた。

 ○『福翁自伝』の口述速記者、矢野由次郎は、大正8年、渋沢栄一校閲『青 淵先生訓言集』を編集し、刊行した。

 以上の報告を、S君と同期の仲間にメールしたのだった。