「『塾歌』から見えてきた『信時潔』」2012/06/19 02:04

 宮川幸雄さんの「『塾歌』から見えてきた『信時潔』」(『うらら』第61 号(2011年5月))を読むまで、私は「塾歌」の作曲者・信時潔について、名 前と「海ゆかば」も作曲したことぐらいしか知らなかった。 宮川さんのエッ セイなどから、信時潔(のぶとき きよし)を少し紹介してみたい。

 明治20(1887)年大阪生まれ、幼少より讃美歌に親しむ。 東京音楽学校 (現東京芸術大学音楽学部)でチェロ、作曲を学ぶ。 卒業後はドイツに留学 し、ゲオルク・シューマンに就き作曲を研修。 帰国後、母校の教授を務めた。  主な作品は、交声曲(カンタータ)「海道東征」、歌曲「沙羅」「海ゆかば」、 合唱曲「あかがり」「いろはうた」、ピアノ曲「木の葉集」。 また唱歌「一 番星みつけた」などの作曲や音楽教科書の編纂にも力を注ぎ、生涯に900曲の 校歌(学習院、成蹊大、専修大、開成学園、灘高、灘中、目黒三中(家内の母 校)など)、170曲社歌・団体歌の作曲を手がけた。 当時の「現代音楽」を 研究し、次世代に示唆を与えたが、自身の作はドイツ古典派の技法から逸脱す ることなく、質実、簡素、素朴、特に重厚な作風を貫いた、といわれている。  昭和40(1965)年逝去、享年77。

 現在の「塾歌」(慶應義塾の校歌)は昭和15(1940)年12月に制定され、 翌年1月10日の福澤先生誕生記念会で新塾歌として発表された。 作詞は福 沢研究の泰斗富田正文、作曲は信時潔である。 それまでの塾歌は明治37 (1904)年制定の角田勤一郎作詞、金須(きす)嘉之進作曲の「天にあふるゝ 文明の 潮東瀛(とうえい)によする時 血雨腥風(せいふう)雲くらく 国 民の夢迷ふ世に 平和の光まばゆしと 呼ぶや真理の朝ぼらけ 新日本の建設 に 人材植ゑし人や誰」(一番)だった。 大正9(1920)年義塾大学部は大 学令により四学部からなる大学となり、以後総合大学として成長するにつれ、 新しい塾歌をつくろうとする機運が生じた。 両校応援団の過熱が昂じて20 年間中止されていた野球の早慶戦が大正14(1925)年に再開され、早稲田大 学校歌「都の西北」の登場で、慶應は押されっぱなしにもなったという事情も あった。 大正15(1926)年義塾は新塾歌の懸賞募集をしたが、採用に至ら ず、その後、与謝野寛、折口信夫らの試作もなされたが、決定版とならなかっ た。 昭和2(1927)年、応援歌「若き血」が、堀内敬三作詞・作曲で生まれ る。 紆余曲折の後、昭和11(1936)年5月塾歌委員会は当時塾監局職員だ った富田正文に作詞を依頼、それがいつ出来たのか、作曲を委嘱された信時潔 は、その歌詞を読んで、人知れぬ感動を覚え、曲はほとんど一気に出来上がっ たと、『慶應歌集』で述懐している。 そして昭和15(1940)年12月の新「塾 歌」制定となる。

 上に見た「塾歌」試作の段階で、与謝野寛の詞に、信時潔が曲を付けたもの があった。 結局は採用されなかった、その幻の「塾歌」の、信時潔の曲の素 晴らしさを生かすべきだということになり、富田正文に作詞を依頼する。 昭 和9(1934)年、副題に「福澤先生誕生百年祭の歌」とついた「日本の誇」と いう歌に生まれ変わる(若松正司編曲)。 毎年1月10日に三田キャンパス で行われる福澤先生誕生記念会の冒頭に、ワグネル・ソサィエティーによって 歌われる歌である。 これがメロディ先行から歌詞先行にかわるのだけれど、 作曲・信時潔、作詞・富田正文コンビによる新「塾歌」の伏線になった。