刃傷事件を仕組んだのは? ― 2012/11/07 06:29
秋山駿さんは『忠臣蔵』とは何だったかを、主に徳富蘇峰の『近世日本国民 史』の『元禄時代世相編』『赤穂義士』、そこに引用された福本日南『元禄快挙 録』、また松島栄一『忠臣蔵』などを読みながら、考えていく。 元禄元(1688) 年は、大坂城陥落から遠ざかること73年、戦争をしない、させない偃武(え んぶ)政策の遂行で、戦争をするための公務員である武士が、その本分、本職 の仕事がない、しなくていいのだ。 江戸とは、江戸城を中心に、将軍から旗 本八万騎まで、その武士の巨大な集団が住む都市である。 この無用の存在み たいなもの、武士とは何者か。 そこで、戦国時代には深刻に悩まなくてよか った、武士の一分、武士道を真剣に考察するようになる。
一方で、元禄は人間万事金の世の中、繁栄を享楽するようになる。 男は酒 色にふける。 享楽を洗練させて、索(もと)めるようになった奢侈は「京都 風」、「貴族」的なもので、そこへと走る原動力は、変身とか化粧を生の波長と する女性であり、この女性の嗜好に奉仕しようとして、町人文化が花開く。
こんな元禄時代を創出した主人公が、五代将軍徳川綱吉である。 秋山駿さ んは、元禄14年3月14日に江戸城・松の廊下で起こった勅使饗応掛浅野内匠 頭による吉良上野介への刃傷事件の全体は、綱吉の、生母桂昌院従一位の贈位 に対する皇室への、現実的には勅使への、返礼として仕組まれたものだと、考 える。 綱吉の寵臣、側用人の柳澤吉保は、綱吉の意志の先廻りをして、昇位 運動を進めていた。 吉良上野介は、将軍の度々の柳澤吉保邸への御成を迎え る一員であり、世上に柳澤の腰巾着という渾名さえあった。
事件を知った柳澤吉保は、すぐ浅野内匠頭の代役を立て、会場を白木書院か ら黒木書院に変更し、式典を行うとともに、綱吉の怒りが内匠頭に向くように する一方で、上野介には「上意なれば、本復の上は、相換わらず出勤せられよ」 といたわった、という。 刃傷事件が起こったのは午前10時前、愛宕下の田 村右京太夫邸で内匠頭が切腹させられたのは酉の上刻すなわち午後6時であっ た。 領主の切腹は「浅野家の断絶」を意味する。 切腹申し渡しと同時に、 内匠頭の舎弟大學長廣を呼び出し、領地召し上げと閉門を通告、鉄砲洲の浅野 邸は「今夕中に引き払い」を申し渡し、浅野家と同族の者を派遣して、もし「家 中騒擾するがごとき」あらば、その災いは、浅野本家その他一門にも波及する、 と警告した。 事件の一日での処理の迅速さは、驚くべきもので、綱吉の独裁 と、柳澤吉保の力を物語る。
事件があっても、勅答(天皇が臣下に答える)という大切な儀式に一点の影 響もさせないことで、綱吉政権の実力を示し、皇室尊重の意にもなる。 綱吉 は、廃れていた大嘗祭の再興をはかり、歴代の山陵修理に手を着けた。 それ には、柳澤の力があった。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。