財閥の改革者、三井の中上川と三菱の荘田2012/12/04 06:52

 平野隆教授は土曜セミナーの後半、「門下生の企業者活動」で、四人を取り上 げた。 財閥の改革者としての、三井の中上川彦次郎と三菱の荘田平五郎、デ パートとその文化を社会に広めた高橋義雄と日比翁助である。

 中上川彦次郎(1854(安政元)~1901(明治34))は、福沢の甥で英国留学 中に井上馨の知遇を得て、その引きで山陽鉄道社長から三井銀行の立て直しに 入る。 中上川の三井改革は、(1)不良債権(政商として関連の)の整理、(2) 官金取扱いの辞退→官依存のビジネスからの脱却、(3)金融・商業偏重→多角 化(工業化)…工業部を作り、鐘紡、東芝、王子製紙、三池炭鉱などを買収、 育てる。(4)学卒者の採用。

 中上川は、植民地化の不安もあった後発国日本にとって、多方面で近代企業 を確立する必要があるが、個別に財力、人材を持っている企業がない、財閥は それが出来る存在であり、多角化はいわば国家的プロジェクトで、国家的利益 (公益)にとって大切と考えていた節がある。 しかし、三井家同族や三井物 産の益田孝は面白くなく、中上川は孤立し、権限を取り上げられ、志半ばで1901 (明治34)年10月福沢の後を追うように48歳で亡くなる。 その蒔いた種 は無駄にならず、死後、各社はトップ企業となって花を咲かす。 (4)中上 川時代の主な三井入行者は、藤山雷太(大日本製糖社長)、小林一三(阪急・東 宝社長、商工相)、和田豊治(富士紡社長)、武藤山治(鐘紡社長、実業同志会)、 池田成彬(日銀総裁、蔵相)、藤原銀次郎(王子製紙社長、商工相)、日比翁助 (三越専務)。

 荘田平五郎(1847(弘化4)~1922(大正11))は、慶應義塾で教師をした 後、福沢の推薦で三菱商会に入った。 荘田の三菱改革は、(1)社則(会社規 則)の制定…「丸屋商社の記」を参考に、(2)洋式簿記の導入(『帳合之法』)、 (3)多角化の推進、海運から保険・倉庫・金融と進む(東京海上保険、明治 生命、三菱倉庫、高島炭坑、第百十九銀行(三菱銀行になる))、(4)長崎造船 所=近代造船業の確立(三菱重工業)、(5)丸の内オフィス街の建設。

 福沢のいう「士流学者」としての中上川と荘田。 共に士流・公益心から出 た日本全体的な見地に立っていた。 荘田は個人的利益に頓着せず、事業資金 (三菱合資)に回していた。 中上川は失意の晩年、荘田は成功の晩年(退職 後12年76歳で死去)だったが、中上川には独断専行、上から目線の所があり、 荘田は冷静沈着で、岩崎弥太郎の姪と結婚してもいた。 財閥の性格も、三井 は保守的で、三菱は新興財閥として新しい事業に貪欲だった。